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4_伊織_悲劇だ!
──美馬氏がアイスダンスに転向したとき、ペアを組んだ女性が玲花さんです。桜庭笑子氏がコーチでした。当時美馬氏はお母さまをガンで亡くされたばかりで、笑子氏が美馬氏の精神的な支えだったようです。
かねてから希望していた振付師の道に進んだときも、背中を押したのは笑子氏です。振付師アンディ・フェネールの弟子としてスイスにいましたが、師弟関係は1年で解消。笑子氏が心臓発作で倒れたために、帰国されました
美馬遊人が現役を引退したのは23歳のときだった。
フィギュアスケートを始めたのは中学2年のとき、という嘘のような経歴だ。元プリマドンナの母の英才教育を受けて、バレエをやっていたが、スケートは遊ぶ程度だったのだ。
18歳でショートとフリーの世界最高得点を叩きだして以来、多彩な表現力で表現の魔術師と呼ばれ、ジャンプミスをしない天才ぶりで、銀盤の奇跡と讃えられてきた。4回転もアクセルを除く、5種類を飛ぶ異次元のスターだった。19歳のときに満を持してオリンピックに出るはずが、直前に靱帯を損傷し、棄権した。
リハビリから復帰さえすれば、23歳で迎えるオリンピックがあった。次は必ずとれると、誰もが期待した。
ところが美馬はシングルスケーターではなく、アイスダンスで復帰宣言をし、競技界を驚かせた。
そしてわずか2年半後、パートナーの引退と同時に、彼もやめてしまった。
美馬は現在大学の芸術学部に通う一方、チェリー・スケーティング・クラブで教室運営に関わり、クラブ再建の金策に走っていた。すべては世話になった桜庭笑子のために、自分のネームバリューを使って、慣れない営業に動いている。
伊織はそれが無性に腹立たしい。
防寒用上着を羽織ってリンクに行くと、美馬はリンクの中央にいた。
黒いウエアと赤いスケート靴。かつての美貌の面影もない。絞り込まれたアスリート体型はどこへいったのか。以前ならリンクに立つ姿を見るだけで悩殺されたものだが……音を立てて崩れていく。
ぷよぷよさせたお腹で滑っている。
ぷよぷよステップ。
ぷよぷよスピン……。
動けているのが奇跡だ。
スライムか、くッそ。
この時間は小学生を中心に教えているが、贅沢にリンクを使った鬼ごっこではしゃいでいる。
「笑ってる場合か」
苦々しい思いで、ミント飴を口に放り込む。
コートを羽織った玲花が肩を並べてきた。
「旧経営陣は真っ先に切るつもり?」
「だったらなんだ」
「教室だけは残していただきたいの。遊人がリンクで子どもを相手にするの、楽しみにしてるから」
「楽しみか……」
伊織が知る限り、美馬の元には夢と希望を持った親子が遠方から訪ねてくる。
すでに伝説のスケーターである美馬に、我が子の才能を見極めて欲しい一心なのだが、美馬はその類の相手が下手くそだった。結果、楽しく滑りたい親子だけが残る。
しかし、美馬ほどの男が、お遊び指導に時間を使うのは才能の浪費だ。
美馬には戻ってもらう。
伊織は教室が終えるのを待って、美馬が自ら来るのを待った。クラブが買収されたことは美馬も知っている。新社長となった伊織が視察に訪れることもだ。美馬は自分を無視できない。
美馬をじっと見据えて、こっちに来いと念じた。
美馬はクールダウンを終えると伊織のほうへ来たが、目も合わさなかった。手すりに手をかけ、ブレードに鞘をはめていく。
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