77人が本棚に入れています
本棚に追加
5_伊織_1ヶ月で痩せろ!
「挨拶もなしですか」
我慢しきれずに、伊織が口を開く。美馬の肩先がビクッとした。
横顔が間近にあると、左目に泣きぼくろが見える。昔はそこに視線がいってしまって、妙な気分になったものだ。
「そんなに身構えないでください」
「このリンクを解体して、マンションか商業施設にするんだろ? 数少ないリンクがまた失われる。嘆かないスケーターはいない」
「リンクを残したいですか」
「残す気があるのか?」
美馬がやっと伊織に顔を向けた。
まん丸の顔……。ここまで劣化できるものなのだろうか。
愛嬌はあるが、これがあの凄絶美貌の美馬遊人だとはとうてい信じられない。
伊織は急に意地悪したくなった。リンクを潰す気はなかったが、なぜか玲花も美馬も取り壊されると思っている。だったらそう思わせておこう。
「残してもいいですよ。先輩次第ですが」
美馬は眉根を寄せた。
「オレ次第とは? 誰かの振り付けをしろという話か?」
「それだけでは足りません」
「足りない?」
「チェリーSCの累積赤字は億を超えてます。先輩の振付に、それほどの価値があるんですか」
嘲るような伊織の口調に、美馬がむっとした。
「先輩にはクラブの広報塔になってもらう」
伊織は社長として話を始めた。
「クラブのてこ入れと存続のために、根本的な改革が必要です。まず先輩のその見栄え」
「見栄え?」
伊織はもう我慢ならなかった。
「その顔と体型! 1ヶ月で元に戻せ。振付師として競技会デビューするのに、絵面がひどすぎる」
「は、は、は」
美馬は馬鹿にしたように笑った。
「元に戻せって、振付師に見栄えなんか関係ないだろう」
「俺が依頼しようとしているのは、真木准です。知ってますよね?」
「ん、ああ、去年のジュニアチャンプだったか」
「2年前のチャンプです。今18歳。去年グランプリシリーズのアメリカ大会で金。足首の故障もあり、今年は身体作りからやり直しています。来年のオリンピックに照準を合わせて」
ふぅん、と美馬は鈍い反応で返した。
「世界トップクラスのスケーターの振付師がデブで! どうやってプログラムを作り上げるっていうんですか。先輩だって、振付師とマンツーマンだったでしょうが」
「そりゃ……まあ、多少は痩せないとだが」
美馬の声が小さくなる。
太りすぎの自覚があるなら救いはある。
ここしばらく、SNSでは美馬遊人が花嫁に逃げられた話題で賑わっていたが、その大半が、劣化した美馬の姿に衝撃が走ってのことだった。
あれは同姓同名だと真っ向から否定するファンのスレッドが立ち、リンク周辺はファンが写真を撮ろうと待ち構えて、伊織が裏から手を回して警備員を増強したので、ようやく平穏が戻ったところなのだ。
美馬はデブだの劣化だの酷いことを書かれても、全く気にしていないようだ。
その感覚が、伊織には分からない。
昔の先輩の美意識はどこにいった!
「伊織、冷静に考えろ。オレは、最近の競技に疎い」
「最近て、アンタ2年前まで競技に出ていたでしょうが!」
伊織は思わずアンタ呼ばわりで突っ込んだ。
「シングルは、離れて7年だ」
もうそんなになるのか。
アイスダンスとシングルでは、別物だ。
「それでも先輩は、あの有名な振付師、アンディ・フェネールの門下生です」
「たったの1年で門下生とは言えない」
「充分ですよ。それに先輩は、現役時代自分で振付をしていました。先輩に振付を依頼したがっている選手は、世界中にいる。なのに先輩は断っている。何が問題なんですか?」
美馬がかすかに頬を歪めさせた。
「オレのこと、よく調べてるんだな」
「真木の振り付けを頼むんですから、当然ちゃんと調べます」
美馬は目を逸らした。
最初のコメントを投稿しよう!