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6_伊織_同居契約
「オレは、競技に縛られたくない」
「先輩がやらないなら、リンクは更地にして、親会社の桜庭社長には、退陣してもらいますよ?」
「何ですって!」
悲鳴のような声が響き渡った。玲花の存在を忘れていた。
「目的は母の退陣とこの土地。そうなのね!」
玲花は噛みついたが、美馬は顔を虚空に向けて、拳を握って黙り込んでいた。
伊織は厳しい面持ちになった。
二人は現状を甘く考えている。
チェリーは小手先の資金投入ではもうどうにもならない。根本から経営を立て直さなければ、時を待たずして潰れる。玲花の母親は理解していた。IORIに任せるという言質も取ってある。
「逃げるなら、どうぞ。先輩は退職届を出してください」
「逃げるだって?」
美馬の目に強い光が浮かんだ。
伊織は美馬のことはよく知っていた。プライドを刺激するのはたやすい。
「そもそも先輩は学生です。さっさと手を引いてください」
「いやなやつだ、おまえは」
「知りませんでしたか」
「遊人、あなたはやめていいわ。カナダのクラブに移籍すればいい」
玲花が美馬を庇うように立った。
花婿を置き去りにして逃げたくせに、おかしな女だ。
「やめない。こいつに腹が立ってきた」
美馬は怒っているが、丸顔で睨まれても何の迫力もない。
嘆かわしい。
「先輩、せめて二重を取り戻してから怒ってください。その方が絶対に効き目がある」
「なっ!」
美馬がますます目を見開かせる。
「では先輩、社長室に来て、契約書に目を通してサインを」
「ここでいい。契約書を寄こせ」
伊織は後ろに控えていた朝桐に目配せして、iPadを受け取った。
美馬がひったくるようにして奪いとる。
「先輩、ちゃんと部屋で」
「うるせ」
美馬は中身も読まずに、「サインする場所を示せ」と言いだした。
短気なところは相変わらずだ。
伊織もわざと呷っているので、読まずにサインをしてくれるのは好都合だった。
朝桐が電子ペンを渡すと、美馬は文句を言いながらサインを始める。
「ほんとうに読まなくていいんですか」
「読んだところで同じだろうが。条件を呑まないとクラブはなくなって、皆が路頭に迷う」
「条件は結果を出すことですよ。その辺、間違えないように」
美馬はiPadと電子ペンを、ふん、と鼻息荒く突き返す。
「では行きましょうか」
「行くってどこへ」
「だから契約書を読めと言ったんですよ」
「なに?」
「朝桐、スケジュールを頼む」
「かしこまりました」
朝桐がすらすらとスケジュールを読み上げる。
契約書には、美馬が振付師として真っ先に取り組むべきことが記されていた。
その第一は、伊織と一緒に生活して、ダイエットをすることだった。
朝桐が生活改善要項を読み進めるにつれ、美馬の顔が青ざめていった。
玲花などは次第に鬼の形相になっていった。
「ちょっと、どうしてあなたが遊人と一緒に暮らすわけ、42日ってなんなの! ダイエット管理をするなら私でしょう! 婚約者なんだから!」
「図々しい女だ。元婚約者だ」
「あなたこそ、遊人の何なのよ!」
「さっきも教えただろう」
伊織は眼鏡のブリッジを押さえて、ふんと鼻白む。
「俺は、先輩の後輩だ」
「あなた、私を馬鹿にしてるのね?」
「今ごろ気づいたか、ドタキャン女」
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