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93_美馬_オレは珍獣か
部屋を出ると、相田が小声で言った。
「朝桐さん、玲花さんに惚れてますね」
「えぇっ」
「玲花さんも、朝桐さんといると落ち着いて見えます。お付き合いするかもですね」
相田の観察眼は間違いない。本当にそうなるなら嬉しいかぎりだ。朝桐は見た目まんまの優しそうな性格だし、あの惣一の秘書がつとまるほどだ。有能だし、忍耐力は大したものだ。玲花程度の気の強さなど可愛いものだろう。
うまくいけばいいと思う。自分が着せてやれなかったウェディングドレス。
ん……いや、一度は着たよな。そうだ、あいつが逃げ出したのだ。
5月の爽やかな風が吹く季節だった。
まだ4ヶ月しか経っていないが、玲花とチャペルにいたのが夢だったような気がする。あそこでデブの自分を見た惣一が驚いて、「ダイエットしろ」と乗り込んできたのだ。
惣一と結ばれていたこの短い期間もいつか、夢のようだった、と思うときが来るのだろう。
専用通路からリンク入りすると、30メートル×60メートルの巨大な楕円形の氷が現れた。
スクリーンが壁にあり、カメラがずらりと並ぶ。
「曲ですが、玲花さんは以前と同じ、ヴァイオリンヴァージョンを提出しています」
惣一の演奏を聴いたとき、オケより好みだったのでヴァイオリンをメインにした。
「それでいい」
「録画で見た練習のときは、ピアノ連弾ヴァージョンも使っていましたが?」
「ん、当時のコーチが、ピアノのほうが音に合わせやすそうだと言ってな」
一瞬の音のズレが演技に影響するため、ピアノもヴァイオリンも、美馬の呼吸や拍に合わせて何度も演奏をしてもらっていた。
だけど昨日解釈を変えたことで、よりヴァイオリンヴァージョンに合うようになった。
新解釈のプログラム。
美馬は大怪我をしてシングルスケーターをやめた、悲劇の選手と思われている。
アイスダンスに転向したときも、4回転が跳べなくなったからだ、と考えたファンが多かった。
転倒する構成は、ある意味ドラマとしては成立する──と言い聞かせて完成した。
美馬がリンクに出ていくと、フラッシュが一斉に焚かれた。
姿を現したとたん、カメラがこちらを向いたことにも気づいていた。生中継はまだ始まらないが、映像を撮っておくのだろう。
クワドアクセルの挑戦をリークしたのは、真木かもしれない。
情報が入っていないと、美馬が転倒しても、ブランクがあったと納得されておしまいだ。だが4回転に挑戦したとなれば、表面はどうあれ、引退したくせにと失笑を買う。
真木にも悪いことをしたと思う。
真木がテクニック派で、ジャンプが得意な選手だと予備知識を持っていたのに、アクセルへの思いは見抜けなかった。
腹も立つはずだ。
来年のオリンピックを視野に入れて選んだ振付師が、その選手より高難度プログラムを演じるというのだから。メンタルへの影響を考えなかった。無神経すぎた。
今日は雑念ばかりだな……。
氷の質はチェリーと同じだった。
いや、逆だ。チェリーの氷が、このリンクと同じ方法で作られたのだ。改修には、惣一が自ら口を出したし、資金も投じた。会長が騒ぐのも無理はない。
リンクサイドで相田と向き合う。
「4回転を何本か、跳んでおきませんか。今日5種類跳びますから」
相田は何でもないようにいうが、5種類の4回転など現役でも跳べない。
「わかった」
パーカを脱いで相田に預け、ドリンクを口にした。
その間もフラッシュが止まらない。
「フラッシュで眼をやられそうですね」
「オレは珍獣かって言うんだ」
「近いですね」
能面顔が珍しく笑う。微妙だ……。
美馬は他のスケーターの位置を確認して、滑り出して加速する。
イーグルから後ろ向きで、左足はアウト・エッジで滑り、右足を徐々に下げて踏切の体勢に入る。
助走は短く、スピードに乗って跳ぶ。
得意のルッツ。
軸が……曲がった。
着氷が両足になる。
あぁ~と会場から溜息が漏れる。励ますような拍手がパラパラ続く。
美馬は流しながら腰に両手を当てて、かぶりを振る。
ん、まだ気持ちが作りきれないな。
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