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94_伊織・美馬_冗談じゃない
「不調だの、やはりブランクは大きかったのぉ」
貴賓席入口からリンクを見るのは、IORIグループ会長と主催者だった。
祖父が上機嫌に笑うので、惣一は眉根を寄せた。
「チェリーの広告塔なんですよ。不調を喜んでどうするんですか」
「そうだったの」
ほっほっほ、と完人が笑む。
──たく、しょうがないお人だ。自分でけしかけておいて。
惣一はリンクに出て来た美馬を見た瞬間から、異変に気づいていた。
滑りたくないオーラをまとって、どんよりしている。
やはり真夜中の電話のせいだろう。
誰かに何かを脅迫されたのだ。
くそ、どこのどいつだ!
冗談じゃない。
美馬遊人のスケートはいつどんなときでも、伊織惣一に捧げられなくてはならない。
不抜けた調子で滑られても嬉しくない。何のために今日まで我慢してきたと思うのだ。
☆☆☆
1時間後、アリーナはほぼ満員の観客に埋め尽くされていた。
開催式が行われ、予定どおりにショーが始まった。
美馬は気分が乗らないまま髪をセットして、衣装に着替えた。
鏡の前に立って、ラメ入りの白と黒の衣装を着た自分を見つめる。一般社会では若い26歳だが、フィギュア選手としては老兵だ。派手なのはイヤだと言った美馬のために、玲花がぶぅぶぅ言いながら変更したクールなデザインだが、それすら今の自分には華やかすぎる。
だが、鏡を覗き込んだ玲花は満足げだ。
「やっぱり遊人はカッコイイね。すごくよく似合ってる」
「ん」
鈍い美馬の反応に、玲花がすかさずむっとする。
「なに、その気のない返事。着心地が悪いの? 跳んで回ってみせて」
その場でジャンプ、回転してみる。
袖が動きづらい。ひらひらがついているが、それが思ったより重くてあたる。
「手をクロスしたとき、袖のひらひらが、ひっかかりそうじゃないですか?」
相田が気づいて、玲花が発狂した。
「もううう、だからちゃんと余裕がほしかったのに」
「少し切るわ!」
玲花が裁縫道具を取りだした。
「一度滑ったくらいじゃ、ほつれもでないだろうから」
「ごめん玲花」
「いいわよ。なんだか遊人がいつもと違うから、心配になっちゃったわよ」
「はは、久しぶりで緊張してんだよ」
「そんなタマだったかしらね?」
玲花が吐息をつく。
そのとき扉がノックされた。
相田が「はいはい」と呟きながらノブに手を伸ばすと、向こうからドアが押されてた。
「ふが」
「あ、ゴメンね」
と、微妙なアクセントの日本語が聞こえ、「ボンジュー」と挨拶しながらアンディが現れた。
静まり返っている控え室の雰囲気に、大げさに肩を竦めさせる。
「どしたユウト。これから、クワドアクセル跳ぶオトコのカオじゃない」
アンディは少し日本語を話すが、アクセント以外はなかなかだ。
「ユウト、アイサツ」
アンディが軽く美馬の肩を抱いて頬を寄せてくる。美馬もさらっと応じた。長い付き合いだ。3秒顔を合わせただけで、感情も体調も悟られる。
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