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* * *
次の日の朝。彼女と共に、海の上を目指した。
海に差し込む朝の光は眩しい。外の世界の光だ。王女はその太陽の光を目指して泳いだ。吸い寄せられるように急いで。私は、少し後ろを、ゆっくりと泳ぐ。急いで泳ぐと鱗が剥がれる。すると王女が気付いて、私の隣に寄り添ってくれた。
そして海上へと頭を出す。外の世界の光は、不思議とひりひりとした痛みを感じた。
海の外に出るのは、初めてではない。私の居場所は海の外にあるではないかと、見に行ったことがある。けれども人間には、人魚よりも性格の悪い人が多いと聞いたし、外の世界は広く、空がどこまでも続いているのが恐ろしく感じた。海のようなのに、こちらを潰そうとしているかのように思えたのだ。だから私は、海に戻るしかなかった。
「朝の光って、気分がいいわね。まるで祝福されてるみたい」
光を浴びて、王女は言葉通り、祝福されているかのように輝いていた。本当に、外の世界が彼女を歓迎しているようだった。そう見える、だけ。
二人で目の前の浜辺を目指す。王女が聞いた噂によると、その浜辺はあの王子が毎朝散歩している場所らしい。見つかるのが恥ずかしく、ちゃんと確認はしていないようだ――王女は本当に子供っぽい。
朝の浜辺には、まだ誰もいない。その白い砂の上に上がったのは、王女一人。手にはあの薬。私は海上から頭を出して、彼女を見据えた。
浜辺から王女がこちらに微笑む。何か言ったように見えたけれども、この距離、この波の音で、優しい声は聞こえなかった。聞こえたとしても、私は受け入れなかっただろう。人間の世界へ行く、あなたの声なんて。
でも、その声は誰にも渡さないから。
薬の瓶を開けて、王女は迷うことなくその中身を飲み干した。私は見ていた。
飲み干して、すぐに変化は起きなかった。けれども違和を感じたのか、王女が首を傾げるのが見えた。と、めまいに襲われたかのように白い砂浜の上に倒れた。変化が始まった。あの魔法の薬には自信があったけれども、やはり緊張して、私は自然と浜辺へと近づく。
王女を見つめれば、あの七色に輝いていた尾は、なくなっていた。かわりに二本の足があった。白く、華奢で、彫刻のような足。美しい足は作り物のようにも見えた。一糸纏わぬ人間の姿で、王女は倒れていた。
「愛する人のための薬」は完璧だった。彼女は王子のために、変身を遂げた。
そして、私の呪いも完璧だった。
眠るように横になった王女の口。わずかに開いたそこから、白く輝く煙のようなものが出てきた。王女の声だ。私は持ってきていた別の瓶を海上に掲げた。シンプルな形の瓶。すると、王女の声は蛇のようにこちらへと飛んできて、居場所を見つけたかのように瓶の中へと入ってきた。全て収まれば、私は蓋をする。
これで彼女は、他人へ「愛してる」なんて言えなくなる。
あなたが愛した人間に、この声を向けることは、もうない。
それに、あの歌を他の誰かに聞いてほしくはなかったから。
私だけの、あなたの声。
そして声があったとしてもなかったとしても、あなたの恋は実らないから。
人間と人魚。別の生き物。私とあなたが違うように。
王女はしばらく目を覚まさないはずだ。噂通りなら、時期に王子がここへやってきて、彼女を見つけるだろう。以前、船が難破した際、自身が浜辺で発見されたときのように。まさかその時の恩人が、目の前で倒れているなんて、彼は思いもしないだろう。
遠くに人影が見えた。二本の足。人間。私は慌てて沖の方へと逃げた。大丈夫、ここなら見つからないはずだ。やってきたのは、王子だろうか。
何人かの人影が見えた。浜辺に倒れている王女を見つけて、彼らは集まってくる。あれは、城の家来か。そして集団の一人は、どうやら家来ではなく、いい服を身に纏っている。
あれが王子か――普通の人間と、何も変わらない。
服を着ていない王女に、自身のマントを被せて、王子はかがんで彼女に声をかける。しばらくして王女は目を覚まし、目の前にいるのがあの王子だと気付けば、本当に幸せそうににっこりと笑った。それからふと自分の尾を、否、尾だった足を見て、現実かと疑うようにその白さを撫でた。改めて顔を上げれば、王子へと何か話そうとしたが、声が出ない。はっとして彼女は喉を押さえた。そして、人魚の時にはあまり感じなかった海水の冷たさを感じたのか、震えていた。けれども王子は何か言いながら彼女の手をとっていた。
そこまで見届けて、私は海の中へ潜っていった。王女の声は、いまは私の手の中にある。これから先、王女は誰かに愛をささやくことはないのだろう。王子に、自分があなたを助けた、とも言うことができない。歌うことも、もうない。私へも、他の誰かへも。
それでいい。私のもとからいなくなるくらいなら。
それに、声があったとしても、彼女の恋は絶対に実らないはずだから。
もし。
いや、もし、ではなく、これから先に、必ず起きると思うのだけれども。
もし、彼女が人魚に戻りたいというのなら、私は喜んで力を貸すつもりだった。帰ってきてくれるのなら、何だってするつもりだった。
全ては計画の内。
私は彼女のためを思ったのだ。彼女のためを思って、人間とはうまくいかないと教えるために、足を与えた。その通りだったと認めて帰ってきてくれるのなら、それでいい。
私は、何も、悪くない。全ては、彼女のため。
――私は本当に、意地悪な魔女だ。
気付けば泣きながら泳いでいた。彼女との別れがつらいからか。それとも。
そして、それからしばらくして、悲劇は起きた。
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