VOICE

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 * * *  あの嵐の日から、何日が経っただろうか。彼女がこの沈没船にやってくるようになって、何日が経っただろうか。 「……これをあげるわ」  その日。私は王女へ、小瓶を差し出した。飾るためのような形をした瓶。中には透明な液体が入っている。海水ではない。これは魔法の薬だった。わずかに光を放っていて、この沈没船の一室では、その光がぼんやりと浮かんで見えた。 「これは?」  そう尋ねながらも、王女はためらうことなく瓶を受け取り、中をじっと見つめる。私は一瞬、本当にこれでいいのか迷ってしまったけれども、ちゃんと言った。 「人間になれる薬。人間の足が手に入る薬よ」  嘘は、何も、言っていない。   新しい装飾品をもらったかのように楽しそうに瓶を見ていた王女の顔が、緊張にすっと青ざめた。 「人間に、なれる薬?」  まるで忘れていたかのように、鸚鵡返ししてくる。でもその手は大切なものを放さないように強く、けれども割れてしまわないように優しく、瓶を握っていた。 「そうよ」  私は椅子の一つに座る。布の先から、醜い尾鰭が顔をだしていたけれども、気にしない。もう、いい。彼女の前では。 「いつか、諦めると思ってたわ。王子のこと。そもそも、人間と人魚じゃ、関係を築くなんて難しいと思ってた」  溜息を吐いて、王女を見据える。彼女は大切な話を聞くように、こちらを見据え返していた。だから私は、微笑んで続ける。 「……でも、あなたなら、そうじゃないかもしれないって、思ったの。だから」  その笑みは、彼女が愛らしいから、というよりも、呆れからきたもの。彼女は気付いただろうか。いや、気付いていないだろう。  どうして彼女は、愚かなんだろう。  そしてどうして私も愚かなんだろう、こんな彼女を、大切に思っているなんて。手放したくないと思っているなんて。 「あなたがそうしたいのなら、行って。望むのなら、そうするべき……」  望むのなら、あなたは少し痛い目を見るべきだ。世の中がそんなに甘くないこと。夢ばかりではないこと。運命なんてものはないこと。それを、知るべきだ。  全てがおとぎ話なんかではないのだ。そしておとぎ話の全ても、幸福な終わりではない。  現実は、それ以上のはずだから。 「……これが、人間になれる、魔法の薬」  王女は何も疑うことなく薬を見つめ、やがて私に微笑むと、その薬を大切そうに抱いた。 「……私、いつか魔女さんが、私の気持ちをわかってくれると思ってた。王子様を想う気持ち……やっと、伝わったのね。ありがとう、魔女さん、これで私、王子様に会いに行ける。王子様に、愛を伝えられる……」  王子への愛。  ――果たして、本当に伝えられるのか。伝えられたとしても、人魚である王女の愛を、受け入れてくれるのだろうか。 「ただ、副作用があるの」  水をさすように、私は伝える。いや、現実を伝えるために、口を開いた。 「これは確かに人間になれる薬よ。でもその代わりに――」  その代わりに。  あなたの声は、誰にも渡さない。 「あなたは、声を失うわ」  本来、この薬にはそんな副作用なんてないけれども。しかしそういう風に作ったから。  その優しく美しい声は、他の誰にも奪われてはいけない。 「声が出なくなるの。あなたは王子に会えても……王子とお話はできないわ。文字でのやりとりもできない。誰かに言語を使って物事を伝えられなくなるの」  言葉を伝えられなくなる呪い。  それが、私がこの薬に加えたものだった。 「声を、なくす? 王子様と……お話ができない?」  全身の力がゆっくり抜けていくかのように、王女は目を見開いた。 「それだけじゃないわ。あなたは、その薬を飲んで、王子のために人間になったとしても……王子と結ばれなければ、あなたは泡になって消えてしまうの」  私は構わず続ける。壁に張りついていた小さな泡が、笑うように剥がれて昇っていった。 「この薬は、正しくは『愛する人のための薬』なの。愛する人のために、自身を変える薬」  王女の手の中で、薬は希望に満ちて輝いている。その透明の中に、絶望の種をはらんで。けれども彼女は「愛する人のための、薬……」と甘いお菓子を口の中で転がすかのように、溜息を吐いた。 「でもその人から愛を得られなければ、破滅してしまう。そういう魔法の薬よ」  それはロマンチックな薬。  私には使えなかった薬だ。私には、愛する人がいないから。正しくは、愛しても愛を返してくれるだろう人がいないから。  この薬は、リスクが大きいものだ。 「人間になれば、人魚に戻るのはとても難しいわ。二度と戻れない、それくらいに思った方がいい……それでも、やるの?」  最後に、聞いておく。ここで彼女が考え直してくれたら、どんなに嬉しいことか。  遠くに行かないで。 「……それでも、私は」  聞こえてきた天使の声は、私にとって、現実を突き進もうとする声というよりも、全てはうまくいくはず、と、夢を見ているかのような声だった。  素敵な物語から出てきたような彼女は、世界も素敵な物語だと思っていて、だから進もうとしている。  彼女は視線を落として、自らの尾を見つめる。人間になった彼女は、どんな姿なのだろうか、と私は想像した。恋した人間のために、いまを捨てるお姫さま。まさに物語のようで、でもここは現実だ。可哀想に、彼女は世界と現実を知らない。私の悲しみも知らない。 「……すぐに行くわけにはいかないわ。みんなにお別れを言わなきゃ。人間になったら、私、尾がなくなっちゃうから自由に泳げなくなるんでしょう? 人間は、泳ぎが下手だし、海の中で生活できないから」  顔を上げた王女は、少しだけ悲しそうな顔をしているものの、その様子が、より喜びを浮かび上がらせていた。どんな犠牲も、いとわないのだろう。 「地上に行くことは、直接言えないわ。そんなこと言ったら止められちゃうから。だから、みんなと少しお話して、それからお手紙を書いて……そうしたら、明日、地上に行くわ。王子様に、会いに行くの」  彼女は沈没船の天井を見上げた。その先にこそ、行くべき世界があると言わんばかりに。手にはリスクが大きく、加えて私の呪いがとけ込んだ薬を握って。 「そう……」  私はそれだけ口にした。もう、止めやしない。あなたがそれを選ぶなら。いつか、間違ってしまったと気付いてくれるだろうから。 「ねえ、魔女さん」  すると王女は、甘えるようにこちらへ微笑んでくる。 「明日……私が人間になるところを、見守っていてほしいの。私……全く怖くないわけじゃないの。だって地上なんて、詳しくは知らないし、尾がなくなるなんて、どんな風になるのかわからないんだもの。それに……私が新しい世界に行くところを、誰かに見送ってもらいたいの」 「いいわよ」  返事はすぐにした。 「私も、そうするつもりだったから。私も少し、不安だったの。あなたが外の世界に行くなんて……その魔法の薬は、あなたの尾をちゃんと人間の足に変えてくれるはずだけど、その先が不安で」  そして私は、あなたの声を回収しに行かなければいけない。頼まれなくても行くつもりだったし、断られても行くつもりだった。 「……あなたは本当にいいお友達ね」  無邪気な王女は何も知らないし、疑うことすら知らない。
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