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「……魔女、さん? その尾は、何?」
王女はそれ以上、近づいては来なかった。その声は、いままで聞いてきた声とは、全く違って聞こえた。
恐怖と嫌悪の声。他の人魚達と、同じ声。
「――帰って」
混乱はしなかった。吐き気を覚えるほどに、頭の中が冷えた。
彼女のその目、その声で、目が覚めてしまった。
彼女も人魚なのだ。私とは違う。そのことを、すっかり忘れていた。
「……その尾は、大丈夫なの? 怪我を、したの?」
すっかり怯えた様子の王女は、それでもこちらへと近づこうとする。とっさに私は尾で床を叩いた。脆い鱗が剥がれるのも構わずに。剥がれて舞って、そして落ちていった汚らしい鱗は、どことなくいまの私に似ていた。その鱗を、否定するように見る彼女――。
「そんな目で私を見ないで! 帰って! もう二度と来ないで!」
怒鳴れば彼女は震え、するりと部屋から出ていった。声も上げずに、あの光あふれる世界に吸い込まれるように。
時間が巻き戻ったような、あの感覚。でも、全ては確かに起こった。
我に返って見下ろせば、醜い尾がそこにあった。床には散っているのは汚い鱗。輝くことなく、まさに死体のように落ちている。死んでいる。
耐えられず声を漏らして、助けを求めるように布を掴んだ。床に落ちた鱗を、その布でばさりと払う。醜い鱗は部屋の隅に追いやられる。
見られてしまった。王女に、本当の私の姿を見られてしまった。いままで必死に隠してきたのに。こんなにも醜いと、知られてしまった。
見られたくなかった、知られたくなかった。彼女を怖がらせてしまうから。彼女がもう来てくれなくなるかもしれないから。
怪物は、世界から嫌われ、怖がられるものだ。その通りになってしまった。
彼女を傷つけたくなかったけれども、耐えられず怒鳴ってしまった。でもそのことを考える以前に、この醜い尾を見られてしまったのだ。
親しく話しかけていた魔女が、怪物だと気がついた。これで、もう、彼女は二度と、ここへは来ない。もう彼女とのおしゃべりも、おしまい。
そもそも私と彼女。全く違う生き物。関わりを持つべきではなかったのだ――私が王女と王子、関わりを持つべきではないと思ったように。
涙は出なかった。嗚咽だけ漏らして、遅れてやってきた尾の痛みに、全てが現実であると改めて感じる。そして自分が本当にどうしようもない見た目で、だからこそ「人魚もどき」としての生き方をしなければならないと、布を握りしめた。
夢だったのだ。あれは。この暗い沈没船で見た夢。
――これで、よかったのだ。
私の醜い尾を隠すためのきれいな織物。よく見ると、薄汚れていて所々が解れていた。けれどもしっかりと腰に巻く。これが私の尾だと言わんばかりに、本来の尾を隠す。
これでよかった。これで、よかったのだ。遅かれ早かれ、王女が私のもとから去ってしまうのは、予想していたこと。それがただ、今日だったという話。
しかし思い出すのは、あの怯えた王女の顔。醜い尾を目の前にした際の、正しい反応。
――ああ、あなたもそういう顔をするのね。
涙が出なかったのは、割り切ったから、こうなることを予想していたから、それだけの理由ではなかった。
誰もが私を、否定する。彼女もだった。
けれども次の日。
再び王女は、ここへやってきたのだ。あんな目で私を見て、怯えていた彼女が。
……部屋でぼんやりとしていると、突然扉を叩かれた。普段ならば、すぐに誰かが沈没船に来たと感じるのに、その日は全くわからなかった。そして耳を疑った。
「私よ! 魔女さん!」
王女の声が聞こえた。間違いない、あのきれいな声だ。
ゆっくりと顔を上げる。いまのは幻聴だろうか。彼女が戻ってくることは、ないと思うのだが。しかし扉の向こうには確かに誰かの気配があって、まるでその声が鍵であったかのように、扉はゆっくりと開いた。
私の返事を待たずに、王女は部屋へと入ってきた。いままでと同じ様子で。昨日とは違う。怯えた様子なんて、どこにもなかった。そう、何事もなかったかのように。
私が口を開く前に、王女はあたかも子供が謝るかのように、さっと頭を下げた。
「昨日はごめんなさい! 知らなかったの、私、あなたの尾のこと……」
王女の美しい尾が、暗い沈没船できらりと輝いた。私とは全く違う尾。
王女が戻ってきた。もう一度、私に会いに来た。
震えながら、漏れそうになった声を殺す。王女を直視できなかった。その輝きがうるさくて、目に痛くて、泣きたくて、目をそらした。それでも、彼女が纏う温かな気が、私へそっと触れてくるようで。
王女が戻ってきた。私に、謝りに来た。私に、ひどいことをしてしまったと思って。
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