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それが分かっても、矢田の表情は変わらなかった。
ただじっと男を見上げて、パタンと広げていた本を閉じた。
「…どこにいったか知りません…お金は、」
立ち上がった細い足が部屋の隅の備え付けのタンスの一番下の段を行儀悪く開けた。
中に手を突っ込みクシャクシャの封筒を取りだした。
口を開いて、小さな頭が中を覗き込んだ。
くしゃりと小さな手がそれの入り口を握りこんだ。
そして、ずいと男に腕をつきだす。
「…なんだ?」
その腕が大きく上下に振られた。
硬貨の当たる音がした。
「ごめんなさい、渡せるのこれだけです」
泣きも笑いもせず、黒目がちの瞳が男を見上げている。
その時の空気を、大きくなってから何度も思い出した。
怖そうなそのおじさんは、何とも言えない顔をしてそれからガリガリのその小さな身体を抱き上げた。
「…帰るぞ、坊主」
その夜に、矢田はその男の家に連れ帰られたのだ。
母親とは、それ以降一度も会っていない。
それからは組の頭、西島 邦弘の元で生活をする事になり。
高校まで出してもらった。
やりたい事があるなら大学に行き、組を離れる事も進められたが断った。
活字中毒と人間不信は変わらなかったけれど、組の人間には愛着を持てたし、様々な人間の中で育ったおかげで何故だか人より優れた洞察力を身につけていたからだ。
家族と呼べる血縁者は居ない。
自分の居場所はここしかないのだと、分かっていた。
「…新しい家でも、探すかな」
ボスと九重 香乃が特別な関係になってしまった今、自分は邪魔になるだろうと思っていた。
最後の悪足掻きよろしく、彼女に気持ちの片鱗を見せてしまったし…口には出さないけれど勘のいい人だ。
ボスもきっと気付いている。
大切な人達だからこそ、邪魔だと思われる事が恐ろしかった。
階段を登りきり、鍵を開けた所で携帯が音をたてた。
狭い空間に無機質な音が響いて、矢田はそれを耳に押し当てた。
『…おう、生きてるか』
電話の相手は先程回想していた、邦弘だった。
「おやっさん、どうされましたか?」
矢田に直接連絡が来る事など年に数回だ。
もしや体調に変化でもあったかと、質問にも答えずに問いかけた。
『お前知ってるか、谷崎の所のクラブの裏の店』
「ええ、確か近々取り壊すって話しの…」
『ああ、そこのやり方がご法度でなぁ…』
とりあえずは、邦弘の身に何かあった訳では無いのだと分かり、矢田はドアを開けて部屋に足を踏み入れた。
「そうですか…それで?」
『お前に、ひとり面倒を見てもらいたい奴がいるんだ』
換気をしようと窓に手をかけたまま、矢田は動きを止めた。
「は?」
この世界に足を突っ込んでからまだそう長くない。
その手の話ならば津城や他の組員に任せられるのが通常だった。
津城が自分を気に入りそばに付けてくれているのは知っているが、それが無ければ何の力もない端の組員に何故?
『まだ19のガキなんだが…多分お前が適役なんだ…頼めるか?』
会長直々の申し出を断れる訳もなく、矢田は分かりましたと答えた。
結局窓も開けぬまま、会長の自宅へ向かうべく踵を返したのである。
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