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男であろうと、矢田に男だと思わせようとしていた叶多の努力を消してしまえば、隣に居る和奏は静かで。
それでいて軽やかで楽しげだった。
「矢田さん、私ほんとに大丈夫だよ?」
矢田は休みの連絡を電話で済ませる事をせずに、一度事務所に顔を出してくると言い。
本当に顔を出すだけの移動時間で、いつもより大きい車と通勤用の車を入れ替えて戻った。
「…僕が大丈夫じゃない…ラグと、清浄機と…君、暖房とガスヒーターはどちらが好きですか、ああ、ストーブでもいいですね」
あの何も無いへやを暖かくしてやらなければ。
矢田は頭のなかで、彼女の部屋に足りないものを組み立てながらアクセルを踏む。
「矢田さん私殆どあの部屋使わないから、ね?あんまり買いすぎは…」
「それは居心地が良くないからでしょう、寝室はリラックスして疲れを取る場所です、空気も、室温も…肌に触れる感触も大切ですよ」
子供の頃の劣悪な環境が、ふと脳裏を過る、
そうだ、和奏にはあたたかい寝床を用意したい。
「…じゃあ、リビングで使う膝掛け…欲しい」
控えめなボリュームで和奏が言った。
ちらりと助手席を見ると、いいのかなと言う不安な顔をしている。
「…君、勘違いしてますよ」
「え?」
一軒目の朝食を摂る為のカフェに車を止めた矢田が微笑む。
「僕は、おやっさんから預けられた同居人の買い物にきたんじゃない…自分の大事な人の買い物をするんだ」
色の白い和奏の首筋から朱色が這い上がり、耳まで赤くなった。
「…もちろん、おやっさんの財布は使わない。…多分これからあれは使わないでしょう、君のフォローは僕がします」
自分の好きな人の生活を、他の男が出した物で賄うなんて耐えられない屈辱だ。
これも、彼女を好きになって知った感情だけれど。
矢田は運転席をおりて助手席側にわまる。
まだ赤い和奏の乗る助手席のドアを開けてその手を取った。
「僕に、秘密を打ち明けなければ良かったと…君がボヤく日も近いかもしれませんね?」
恋人になろうと話した訳でもないが、矢田は和奏を離す気は無い。
「…さあ、ここのコーンスープが美味いと同僚が言ってました。楽しみですね?」
矢田に手を引かれて和奏が隣りを歩く。
半歩、その身体が矢田に寄り添った。
「矢田さん」
「…はい」
斜め下から和奏が矢田を見上げる。
「ありがとう…嬉しい」
「…」
いいんだろうか、和奏がこんなに可愛らしくて。
こんなに可愛い顔で笑いかけるのを自分が受け止めて。
遅く来た初恋は、身に余る程の威力で。
幼い頃からの表情筋の怠惰さに感謝した。
らしくもなく浮かれながら、矢田はカフェの扉を潜る。
和奏は、叶多と同じで食欲旺盛だろうか。
新しい彼女の一面を見てみたい。
彼女を知りたい。
当たり前の日常が、楽しみで仕方がなかった。
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