出会い

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出会い

僕は今、悲しいのだろう。 多分これが喪失感だ。 喉の奥に物が詰まったみたいに、慎重に呼吸を繰り返しながら硬い音のする階段をあがっている。 また始まるだけだ。 自分の感情の真意すら分からない日常に戻るだけ。 矢田 千晴 (やた ちはる)はゆっくりと階段をあがりながら、小さく息を吐いた。 今しがた、ボスを下まで送り…矢田は与えられた最上階の部屋に戻る所だ。 送り出したボス、津城 秋人は今晩やっと家に戻り一息つくだろう。 その家で待つ彼女は今頃忙しく動き回っている。 それを容易に想像出来てしまって、矢田の表情が柔らかく綻ぶ。 随分長い間世話になっていた和代という女性が、家に押し入った商売敵に襲われた。 隣の部屋から飛び込んだ時には、彼女はもう倒されて気を失い頭から血を流していた。 その男を取り押さえる事には成功したが、和代は命までは取られなかったけれど目を覚まさないでいる。 今、その和代の代わりに今あの家を取り仕切ってくれているのがボスの恋人…九重 香乃だ。 控えめなのに真っ直ぐで、いつも身体の中心にちゃんと芯がある女性。 考慮深く、優しく。 …矢田が初めて抱き締めてみたいと思った女性だった。 矢田は、これまで恋という物に確信を持てずに生きてきた。 生い立ちがあまりに荒んでいたからか、女性という物を清らかだと思う時期が無かったからだ。 矢田がこの組の組長…現会長に拾われたのは僅か九つの時だった。 いつもと同じ様に、狭い部屋の隅で本を読んでいた。 あの日手にしていた物語は何だったか。 …好きな本で何度も読み直して居たはずが、思い出せない。 聞いた事のない足音がして顔を上げた。 横並びに同じドアが続く廊下を誰が歩いて来たのか、それを聞き分けられるくらいの時間を、その部屋の隅で過ごしていた。 夕方、母親が出て行ったまま鍵もかけずにいた古い木製のドアが開いた。 「…坊主、何で居る」 怖そうなおじさんが、驚いた顔で自分を見下ろしているのをじっと見上げて黙っていた。 「…親父、確か子供がひとりって情報がありました」 「 ああ…だからだ…何でいる」 日の当たらない6畳ひと間に、張り替えもされない毛羽立った畳と、ぺたんこのシングル布団。 あとは単身用の古いキッチンがあるだけの、その部屋にテレビは無い。 学校にも通わない矢田にとっての時間潰しは、母親が買ってきたドリルと教科書。 あとは母親の仕事仲間が差し入れてくれる、ジャンルも対象年齢も様々な本だけだった。 辞書で調べた難解な言葉を記憶するだけの時間の中で、様々な情報だけは蓄積されていた。 その男、後に矢田の世界のテッペンに君臨する事になる人物の一言で…自分は捨てられたのだと理解した。 いつもの様に、振り返りもせずに扉を閉め慌ただしく出ていった母親は行方をくらまし、自分は置き去りにされたのだ。
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