第1話 もしこの気持ちに名前をつけるなら

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第1話 もしこの気持ちに名前をつけるなら

 理央(りお)が靴箱に上履きをしまった。  身長が百五十を下回る彼女を、百八十の僕が上から見下ろす。  え、という顔をした彼女に吸い寄せられるように唇が、唇と、重なった。彼女の唇はそのまま、ほんの少し開いていた。  ――事故ではなかった。  三、二、一······。  どうして、と理央は泣きそうな顔をしていたけどバツの悪かった僕は本当のことなんかとても言えずに「丁度いい角度だったから」と頭の中で、つまり嘘をついた。  理央は理由を求めているに違いないのに。  最悪なヤツだ。なにも言えない。  理央の瞳は次第に潤んできて、見ているのがかわいそうになった。  僕は自分の体を支えていた右手を、下駄箱から下ろした。 「お待たせ! 英語のプリントが机の中で迷子になっちゃってさ」  咄嗟にさっきまでのことはなかったふりをして、僕と理央は(よう)の方を振り向いた。彼女の髪がくるりと揺れる。 「明日当たるんだろ? なんで迷子になるまで放っておいたんだよ」 「俺的にはファイルに挟んだつもりだったんだよ」 「なんだその、『俺的』ってのは」 「まぁいいじゃん、見つかったんだし。今日の(かなで)は一段と怖いんだけど、なんかした?」 「······別に」  昇降口を出ようと踵を返す。  だってこんなことをしたって結局理央は洋のものだ。唇が触れたって、僕のものになったわけじゃない。あの唇ひとつだって。  あーあ。  まったく、あーあ、としか言いようがない。  ドラえもんがここにいれば、なにか役に立つ消しゴムとか持ってきてくれて、史上最悪の僕の失敗を切り取って捨ててくれるに違いないのに。  全文選択して、デリート。  それができたら苦労しない。  僕と洋は幼なじみだ。  幼稚園の頃、泥遊びしていた仲だ。  泥遊びの延長で、いま同じ高校にいる。  同じ小学校、同じ中学、同じ塾、そして同じ高校。  極めつけが。  好きになった女の子まで同じだった。  理央はなんてことない小さな女の子で、目鼻立ちはこんなこと言っていいかわからないけど凡庸で、ぺたぺたと足音を立ててペンギンのように歩き、「待て」と言えば止まってしまう、そういうタイプ。  でもその凡庸さの中に、ひとつひとつのパーツをじっと見てみると目が離せないものがあった。  黒く子犬のようにつぶらな瞳、ささやかに通った鼻筋、ぷっくりした唇を持つ小さな口。子供のような、作り物のような手のひら。  それら我々男子が持ち得ないパーツを盛モリに詰め込んだのが理央だ。  顎のラインで切り揃えられた真っ直ぐな黒髪が、歩く度にそっと揺れる。  洋と付き合い始めてから僕は理央の後ろ姿ばかり見ていた気がする。彼女の後ろ頭の、つむじ辺りを。  そうして気が付かなければよかったのに、洋の隣にいる理央が、いつの間にか洋より大切な存在になっていたんだ。  もう遅いんだけど。  キス、したんだろうか、洋と。  じゃなきゃあんな不意打ちを受けたら、きっと泣いてる。初めてが奪われたんじゃ、きっと泣いてる。  できれば泣かせてしまっても、僕のフライングならいいのに。彼女の赤い潤んだ唇を盗んだのは、僕が最初ならいいのに。  今夜の星空に願ってみようか。  いや、そんなことをしたって無意味だ。  星空はいつも厳格で平等だ。僕の上にだけ流れ星が降ったりはしないんだ。 「好き」って気持ちに名前をつけるなら、間違いなく「恋」だろう。  そんなわけで僕は、目の前をふたりで歩く理央に恋している。  もしもこの気持ちが、洋を盗られたからとかそういうくだらない気持ちの裏返しならどんなにいいか。  僕は、彼女に恋している。
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