忘れ桃

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孝史は今日から新しい部署になった。 新しい配属先で与えられたデスクの横には若い女性が仕事をしていた。 女性の名前は大神真実と言った。 真実はほとんど口をきかなかった。 日中は黙々と仕事をこなし、定時にはすぐに帰って行った。 他の誰も彼女のことを詳しく知らず、真面目で寡黙な女性という認識しかなかった。 そんな中で孝史は真実のある行動に気づいた。 真実は会社に来るとカバンから1つの桃を取り出し、引き出しにしまった。 そして定時になると、また桃をカバンに入れて帰って行った。 孝史のデスクから少しその行動を垣間みることができた。 あれはどう見ても桃だった。 なぜ真実が桃をいつも持ってくるのか、孝史は疑問を抱いた。 ある日、孝史は遅くまで残業することになった。 フロアには誰もいなかった。 孝史だけが明日のための資料を作っていた。 夜10時過ぎになり、孝史は猛烈に腹を空かせた。 どこかの引き出しにお菓子などが入っていないだろうか。 孝史は周りの引き出しをどんどん開けていった。 すると1つの引き出しの中に桃が1つ入っていた。 そこは真実がいつも桃を入れている引き出しだった。 おかしいな、いつも帰るときに持って帰るのに。 その桃を見た途端に、空腹感がさらに増した。 真実に申し訳ないと思いつつ、孝史はその桃を食べたのだった。 次の日、真実は会社に来ると桃が入っているはずの抽斗の中を確かめた。 もちろんそこには桃はなかった。 その様子を見ていた孝史は真実に謝ることにした。 真実は目を見開いて孝史に言い放った。 「あの桃はこの会社に必要だったのに!」 そう言うと真実は早退届を出して、帰宅してしまった。 それから1週間ほどして真実は会社を辞めた。 挨拶もなく、課長から一身上の都合としか知らされなかった。 それから1ヶ月ほどすると孝史の会社は倒産した。 経営上のトラブルから資金ショートを起こし、倒産まであっという間だった。 孝史は職を探して街をさまよった。 たまたま立ち寄った公園のベンチに真実が座っていた。 孝史は真実の横に腰を下し、会社が倒産したことを告げた。 「全部あの桃を食べたせいです」 真実はそう孝史に言った。 「あの桃は一体何だったんだ?桃と倒産がどう関係しているのかな?」 「桃には神の名前があります。オオカムヅミという神名をイザナギ命から頂いたのです」 真実は孝史の目をじっと見据えながら続けた。 「そしてあなたが食べたあの桃は、イザナギ命が実際に手に取ったとされる3つの桃のうちの1つだ ったのです。あの桃は神の桃であり、特別な力がありました」 「どうして君がそんなものを持っていたんだい?」 「私はあの桃を奉納してあった神社の家の生まれです。そしてあの会社は不吉な予感がありました。 神社にあったあの桃の力で、邪気から会社を護ろうとしていたのです」 「僕がそれを食べてしまった?」 「あの日は邪気が特に強かったので、桃を置いて帰ったのです。それをあなたが食べてしまった。桃 がなくなった会社は邪気により無き物とされてしまったのです」 孝史は自分のした軽率な行為を恥じた。 自分がした行いのせいで多くの人を路頭に迷わせてしまった。 「本当に申し訳ないことをした。君にも会社の人にも、謝っても償いきれない」 「謝る必要なんてありません。あなたは一生をかけて、桃を食べた罪を償ってください」 孝史はベンチを立ち上がり公園から去ろうとした。 「最後に1つだけ言っておかなければならないことがあります」 真実が孝史の後ろから話しかける。 「あの桃にはもう1つ特別な力がありました。それは不老不死の力です。桃を食べた人は、永遠の命 と永遠の若さを手に入れることができます」 孝史は真実の方に振り向く。 真実は孝史の目を見据えて言った。 「あなたは桃を食べた罪を償ってください。あなたは永遠に黄泉の国に行くことは許されません。この地上世界で苦しみ悲しむ人々を救ってください。あの桃に代わって」 風が孝史の頬を叩いた。 風が強く通り過ぎて行った。
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