秋醒め

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起きていても、目醒める瞬間というものがある。  部屋の窓を開けたとき。その窓から流れこむ風が冷たく澄んでいたとき。息を吸い込んで、肺の奥が透明になったとき。  白く煙る部屋の中、わたしは二度目の目醒めを朝日に送る。  わたしの部屋は東向きなので、遠くの山なみから太陽が昇ってくるところがちょうど見える。山のてっぺんが赤い線で結ばれて、いくらもしないうちに階下の家々が輝きだす。  屋根の端や窓に光があたって無造作に散っていくのを、わたしはいつも瞬きを早めて眺めている。  光源を見すぎて目の前が白く曇りだしたら、一旦窓を閉めてベッドに戻る。仰向けになり目を閉じる。  鳥の声が聴こえる。とぼけた鳴き方を飽きもせず繰り返すのは、何という鳥だろう。  家の中からはまだ何も聞こえてこない。一階で寝ている母は一時間後の六時半に起きる。隣の兄の部屋からも物音一つしない。  この家で呼吸をしているのはわたしだけなのではないか。  そんな考えが浮かぶ。これもいつものことだ。  目を開ける。足元を朝日が照らしている。  身を起こし、布団の上の光があたっているところに両手を置く。ほんの少しだけ、熱を感じる。猫がうずくまっていたあとみたいな、柔らかい熱。  やがて赤い朝日は空に馴染んで白色灯のような光になる。明るかった部屋も翳る。布団の上の熱も冷めていく。まるで夢から醒めるみたいに。  壁に馴染んでしまって消せなくなったクレヨンの落書きが、いつまでもそこにあるようだ。わたしの耳の穴をヘッドホンから流れる音楽がひっきりなしに行き来している。口をぽけっと開けて、首を縦に振りながら聴いているわたしの姿が、窓ガラスにうっすら映っている。  秋雨が降っていた。窓を閉めているから雨の音は聞こえないけれど、雨粒の大きさや降る速さから音を想像する。さあさあ、だろうか。音というのは不思議なもので、しとしとと、ざあざあ、ごうごう、など一度でも形容されてしまうと、もうその音にしか聞こえなくなる。どんなに透明な気持ちで聞いても、擬音語に耳が絡め取られる。  わたしは雨音を言い表す絶対的に新しい表現を作りたいと、いつも考えている。でも、例え逆立ちして上に昇っていく雨粒を見つめたって、へおへお、とか、まぼまぼ、には聞こえない。黒カビみたいにわたしの鼓膜にべっとりと張りつき、呪いのように囁き続けるのはやっぱり、さあさあという表現しかなかった。  不自由だな、と思う。誰かの、何かの感性に取り憑かれてしまったわたしの感覚器官は、いつも正常に作動しない。初めて見た景色も、どこかで聞いた言葉で表してしまう。まったくの新しい言葉なんてこの世にはなくて、あるいはもう出尽くしてしまったのではないかと思う。わたしは誰かのおさがりの表現をしれっと使い込んでいるだけなのだ。  それでも音楽は、使い古しだってどこかで聴いたことがあったって、そんなの構うもんかという強気な姿勢だから、わたしは好きだ。話そうとすると言葉に詰まってしまうわたしでも、音楽を聴いているときは饒舌になれる。声には出さないけれど、頭の中では常に喋っていて、ベルトコンベアのように滑らかに喉の奥から言葉が運ばれてくる。  ヘッドホンを両手で押さえ、わたしの体に音楽を閉じ込める。耳から入った音楽が脳天に達し、顎の先を伝って喉へ落ちていく。内臓を駆け、膝の辺りで一旦休んでから爪先へ。手の指から肩まで一気に昇り、こめかみで弾みをつけてまた脳へ巡っていく。わたしの体内では、血液とは違うルートで音楽が循環している。  ピアノ曲が聴きたくなった。わたしは今聴いている洋楽を止め、ところどころに傷がついている正方形のプレイヤーに別のMDをセットした。前に父の部屋から大量に拝借したMDには、一つ一つアルバム名と曲目が書かれたシールが貼ってあった。生真面目に口を結んだ父の顔が浮かぶ。  父は数年前から単身赴任をしていて、家には滅多に帰ってこない。音楽好きな父の部屋はクラシックやジャズ、ロック、フォークソングなど様々なジャンルのアルバムが揃っていて、宝部屋のようだ。さらにそれらをいちいちMDに焼いて、あ行から順に棚に並べている。真四角で片手に収まるサイズ感と、聴いたとき少しざらざらとしたノイズが入るところが気に入って、わたしはすっかりMD信者になった。  今日は雨が降っているから、ジョージ・ウィンストンのCloudy This Morning をエンドレスリピートしよう。ピアノソロで、雨のそぼ降る暗い森の中を手探りで彷徨っているような雰囲気の曲だ。曲名にはCloudyとあるけれど、わたしには雨のイメージのほうがしっくりくる。季節はちょうど今と同じ秋だ。深い森の中で、何度も何度も同じところを行き来して、途方に暮れた少女が一人。雨に濡れ、泣きそうな顔で懲りもせずまた同じ道を進んで行ってしまう、愚かな少女。  三回目のリピートで、開始五秒ジョージがピアノの鍵盤を二回高く鳴らしたとき、部屋のドアもコンコンと二回叩かれた。ヘッドホンを外すと、母の弱々しい声がドア越しに聞こえた。 「色葉、ご飯ここに置いておくからね」  わたしは答えない。わたしの中に閉じ込めた音楽が、声とともに逃げて行ってしまう気がするからだ。頷いてみたけれど、当然ドアの向こうの母には伝わるはずもない。  部屋のドアは何重にもロックされた鉄の重い扉などではなく、簡単に蹴破られてしまいそうな木製の薄いドアだ。おまけに鍵もついていない。だから、入ろうと思えばいつでもドアノブを回すだけでこちらへ来ることができる。それなのに、母はいつもノックと短い言葉と食事を置いていくだけで、部屋には入って来ない。わたしが入るなと言ったわけでもない。怯えたように喉を震わせ、捻り出すように声を発する。向こう側にいる母は一体どんな表情をして、どんな格好をして、どんな気持ちで立っているのか、わたしにはわからない。最後に母の顔を見たのはいつ頃のことだっただろう。  部屋の外にはしばらく母の気配があったけれど、そのうちスリッパの音がゆっくり遠ざかっていった。わたしは再びヘッドホンをかけ、森の中へ戻った。  夕方になっても雨はまだ降り続いていた。わたしはヘッドホンをはずし、窓の淵に両腕を置いて外を眺めた。  濡れて黒光りしているアスファルトと、流れ落ちる水滴によって立体感が増した屋根の輪郭を目でなぞる。ベランダの柵を叩く雨粒を数え、雨音を瞬時に聞き分ける。傘をさして歩く人とささない人は、傘を持っているかいないかの差だけではなく、何かもっと根本的な、例えばその人の体を流れる血液だとか細胞だとか遺伝子だとか、そういった内側の重要な働きが差を生んでいるような気がする。  傘をささない人の中にも、濡れるのを避けるように腕を額にかざし小走りする人や、雨など降っていないかのように悠々と歩いていく人がいる。彼らも同じように体固有の営みによって左右されているのだろう。  こうやって一人思考を巡らせていると、自分が偉大な詩人にでもなったかのような気になってくる。細分化の最先端はわたしによって築かれたのだという根拠の見当たらない自信が、目まぐるしく脳裏を飛び交う。目に見えるもの、聞こえる音、起こった出来事を細かく千切ってその一つ一つに潜っていくことが、わたしの自己肯定感を高める唯一の方法だった。  ガラガラ、と隣の部屋の窓が開く音がした。隣の、兄の部屋とはベランダがつながっている。わたしも窓を開け淵から身を乗り出したが、部屋の中に引っ込んでいるのか兄の姿は見えなかった。 「拓波」  呼びかけると、向こうで空気がひずんだ気配がした。しばらくして、兄のどむどむとしたベースのような低い声が聞こえた。 「何」 「今起きたの? 優雅だね」 「それはお前もだろ」 「わたしはずっと起きてたよ」 「ふうん」 「雨止まないね」 「秋雨前線が停滞してるからな」 「気象予報士みたい」 「別に」 「明日も雨かな」 「だろうな」 「雨だと拓波の髪の毛爆発しちゃうよね」 「うるせえよ」  わたしは兄の綿菓子みたいな癖毛を思い浮かべた。昔から兄の髪は毛量が多く、うねうねと四方に広がってしまう。雨の日は特にとっ散らかっていた。髪を梳いても、一週間も経つとすぐにもくもくと増え始める。仏頂面で髪をいじる兄の周りを、幼いわたしはケタケタと笑いながら走り回っていた。 「お前の髪はまっすぐでいいな」 「心がまっすぐだからね」 「何を言ってるんだか」 「本当だもん」 「じゃあ俺はひん曲がってるのか」 「そういうことだね」 「なわけないだろ」 「わたしよりは曲がってる」 「そりゃあまあ、大人だからな」 「四つしか違わないでしょ」 「ハタチの壁は大きいよ」 「拓波はおじさんみたい。若々しくない」 「お前はガキくさいな」 「うるさいよ」  くく、と兄が笑った。兄は笑うと声が掠れる。低い声のまま笑うことができない。子供の頃はセサミストリートに出てくるエルモのような可愛らしい声をしていたけれど、変声期がきて低くなってしまった。声の変化に伴い、兄はあまり自分から喋らなくなった。わたしとはくだらない話もしてくれるが、両親が話しかけても一言返すくらいで会話らしい会話はしなくなった。  拓波はお母さんとお父さんのこと嫌いなの?  自分の声が嫌いなんだ。  どうして?  低くて汚いから。  そんなことないよ、わたしは好きだよ。  じゃあ色葉とは喋るね。  うん!  何年も前にした会話を今でも覚えている。兄はあれから自分の声を好きになれたのか嫌いなままなのか、わたしにはわからない。訊いて、嫌いと言われたら、わたしはきっと悲しくなるだろう。兄が自分自身を嫌うことは、わたしを深く傷つける。  それは多分、同じ母のお腹から生まれたからとか血がつながった兄妹だからという理由ではなくて、もっと単純にわたしは兄のことが愛おしいと思っているからだ。兄を形成するもの、取り巻く空気、仕草の一つでさえ拓波という人間の真髄を表すものだから、わたしは澄み切った目で見なくてはならない。風通しのいい耳で聴かなくてはならない。些細な振動ですら敏感に感じ取らなくてはならない。それが愛おしいということだと思うから。 「そうだ、お前飯くらい食えよ。母さんが悲しむぞ」 「忘れてた。朝も昼も食べてないや」 「腹減らないのか」 「あんまり。食べなきゃって思うと余計減らない」 「まあそういうもんだよな」 「うん」 「でも食べとけ。痩せ細るぞ」 「肉まんみたいになるよりはマシ」 「ポッキーみたいになってもいいのか」 「それは嫌」  わたしの即答に、兄はまた掠れた声で笑った。  雨は小降りになってきた。ベランダの柵に絶え間なく当たり弾けていた雨粒は、遠慮がちに柵を撫でるようになった。長いこと窓を開けていたので、体が冷えてきた。窓枠に置いた手が冷たくなっている。指を動かすとカサカサと乾いた皮膚の表面が、摩擦を生んだように痛んだ。 「そろそろ窓閉めるわ。じゃあな」  兄も同じように感じているのか、そう言って話を切り上げた。 「うん」  向こうでガラガラと窓の閉まる音がした。ついでにカーテンを閉める音もして、兄の部屋は静かになった。  わたしは兄の部屋に入ったことがない。覗いたことならあるが、兄は自分の世界を大切にしているから、家族にあれやこれやと詮索されたり、自分の領域に入って来られるのを嫌がった。兄に直接言われたわけではないけれど、わたしも兄のように人に自分の空間を侵食されることを嫌うタイプだから、兄のそういう考えを尊重していた。  わたしたちは兄妹で、家族だけれど、お互いの時間と空間に不用意に入ることはしなかった。わたしと兄の間には大海が横たわっているけれど、そこにはちゃんと橋が架けられていた。定期的にメンテナンスをして、欄干の埃を取り、ひび割れた部分はすぐに補修してきた。同じことを兄も向こう側からしてくれていた。わたしと兄の橋は虹のように消えてしまうものではなく、太い鉄骨でできた頑丈なものだと、わたしはそう思っていた。  わたしも立ち上がって窓を閉め、すっかり暗くなった部屋に明かりをつけた。天井のLEDが、わたしの暗がりに慣れた目をゆっくり明るさに溶かしていった。  ***  一番古い記憶というものがわたしの脳みその中にはあって、もちろんわたしだけではないだろうけれど、その刻み込まれた記憶がときどき断片的に顔を覗かせることがある。多分、三、四歳頃のこと。五歳まではいっていなかったと思う。わたしがそれくらいの年齢だということは、兄は小学校二、三年だろう。  母や兄から聞いた話によればわたしは幼い頃、好奇心に手足が生えているような子供で、目に映るもの手の届くものすべてに興味を持ったそうだ。何でも触り、握り、千切る。兄の宿題のプリントを破ることもしばしばあったらしい。  わたしが一番古い記憶として覚えているのは、びりびりと何かを破いたり切れ端を口に入れたりして遊んでいたことと、それを目にした兄の表情だ。そのときの自分の感情なんてわからない。ただ兄の感情は、記憶の中の兄の顔の配置と今の知識をつなぎ合わせると見えてくる。  下唇を歯形がつくほど噛み締め、眉間に深い轍ができていた。目はわたしを通り越してどこか別のところを見つめていた。赤く潤んでいた気もする。呼吸が荒かった。  兄はわたしの指を一本ずつ開いていき、ぎっちりと握り締めていた紙屑を取り除いた。表情はそのままなのに、わたしの指に触れる手はやさしく動き、束の間気持ちよさに包まれた。 「ごめんな」  兄は床に散らばった紙屑を拾い集めたあと、わたしに向かってそう言った。これは今思い返しても謎めいている。紙屑を抱えた兄の両手は震えていた。本当なら謝るべきはわたしのほうなのに、目を真っ赤にして生まれたてのひよこみたいに震えて、それでも兄はわたしを叱らなかった。口に入った虫を外に逃すまいとしているようにぎゅっと固く閉じられた唇が、わたしに荒々しい言葉を叩きつけることはなかった。そのために薄い唇を開くなんてことは決してしなかった。  ***  そのあとどうなったのかは覚えていない。記憶はやっぱり断片的で、思い出そうとしても次に浮かんでくるのは、食卓に出たブロッコリーをこっそり床に落としていたのが母に見つかって、こっ酷く怒られたことだった。  兄に訊いてみようと思ったこともあるけれど、あの紙が兄にとって大切なものであればあるほど、わたしは自分の無邪気さが許せなくなりそうで怖かった。その無邪気さは過去の産物であり、今はもう失われているか形を変えているものであったとしても、むくむくと立ち込めてくる積乱雲のような怒りは、わたしの手に負えるものではなかった。 「拓波はすぐ謝る」  一人で部屋に閉じこもっていると誰とも喋る必要がないので、声が出なくなってしまうのではないかと思うときがある。今、独り言に選んだのはこんな言葉だった。別に、兄はすぐに謝る癖があるわけでもないけれど、一番古い記憶にいる兄がわたしに謝っていたから、以来兄がごめんなと言う姿ばかり集めて記憶に放るようになってしまった。  兄がごめんな、と言うときは、大抵兄は悪くない。どうにもこうにも立ち行かなくなって、わたしも兄も途方に暮れて足が竦んだときに、呟くように言う。口からスイカの種を出すみたいに、ぽ、と。何の解決にもならないけれど、兄のごめんなはわたしの夕暮れに明かりを灯してくれる。ここからまた歩いて行ける、と決意に似た強い気持ちを湧き上がらせてくれる。  実のところ、わたしは兄のごめんなが好きだった。言わせようと仕向けることはしないけれど、兄が言ってくれるのを待っている節はある。兄の薄い唇がごめんな、と動くのを見逃したくないし、低い声でそう言うのを聞き逃したくなかった。心臓の奥深くに染み込んで、そこで静かに息をしている。体温が低い兄の、ほのかに温度を孕んだ言葉。冷たい手で温かい水を掻き混ぜるように、境目が曖昧になる瞬間が待ち遠しかった。  ベッドの中で微睡んでいると、カーテンの隙間から覗く窓の外が白んできた。あと何時間もしないうちに日が昇る。わたしは同じ朝を繰り返す。今日も雨が降るのだろうか。カーテンを少しだけ開け、空模様を確認する。厚い雲が空を覆っている。太陽は見えないかもしれない。今日聴く音楽は何にしようか。雨ならやっぱりピアノ曲がいい。そんなことを考えながら耳を澄ます。薄い壁の向こうにいるはずの兄は、深い眠りの中にいるのか気配が感じられなかった。  ショパンの雨だれのプレリュードは、雨の日に聴くに限る。降り続く雨が嫌にならないのは、こういった日に合わせたお気に入りの音楽があるからだ。  わたしは本棚に背を預け、窓の外を見ながら雨だれを聴いていた。最初の優雅な貴族のティータイムのような雰囲気の曲調が、一分五十秒あたりから雲行きが怪しくなってくる。不穏な色の空に人々の表情も険しくなる。けれど、雲間を割くように差し込んできたのは、希望のような一筋の光だった。そんなイメージで雨だれを聴く。  そういう曲ではないのかもしれない。ただ雨模様をトレースシートに書き写すみたいに、正確に音に立ち上がらせただけなのかもしれない。音楽や物語に希望なんてものを見出すのは少し野暮ったい。すぐ飽きてしまうのに、希望を見つけたことを懲りずに逐一報告したくなる。それはただの音や文字でしかない。それ以上でもなければそれ以下でもない、等身大の置き物のような冷たいものなのに。  わたしはどうして希望を探してしまうのだろう。誰かの言葉の端々にも、時間の流れの中にも、嫌になるくらい延々と目を凝らしている。耳が遠くなって視力が落ちて、理解する力も覚束なくなったとしても、わたしはまだ見つけようとするのだろうか。無意味とは言えないが、有意義であるとも言えない行為。婉曲した大掛かりな言葉の端っこで、掻き乱すように希望を探り当てるつもりなのだろうか。  ヘッドホンを外した。このおやきみたいな耳当ての中ではまだ雨だれが鳴っている。誰かに縋りたくて堪らない。つい十数分前のわたしと今のわたしでは気分が激しく違っていて耳鳴りがする。立てた両膝に顔を埋めた。息を大袈裟に吐き出してみたり、額を膝に強く押し当ててみたりした。わたし一人では抗えないほどの巨大な不安が、怪物のように部屋の中を右往左往していた。  見つかったら喰われてしまう。わたしはますます体を小さく丸くして、不安に気づかれないようにできる限りの努力をした。誰かに縋りたくて堪らない。けれど、わたしはこの部屋の中では圧倒的に一人きりだった。誰もわたしの世界を侵食してこない。でもそれは、わたしが世界に取り残されたということの裏返しだ。  コンコン、とドアがノックされた。母のか細い声がヘッドホンをしていない耳に直接届いた。 「色葉、朝ご飯、食べてね」  母の声は疲れ切っていた。わたしは返事をしなかった。縋りたいと思っていながら、今声を出すことはわたしの脆さや危うさが土砂のように流れ出てしまう気がした。ドアを弾き飛ばし、向こう側にいる母をも飲み込みかねない。そんなことになれば、わたしは何のためにこの部屋に一人きりでいるのかわからなくなってしまう。  母のスリッパの音が遠ざかって行く。躊躇いがちにときどき止まりながら、おそらくわたしの部屋を振り返っているのだろう。  兄には食事を摂れと言われたけれど、どうしても食べる気にはなれなかった。胸がいっぱいで、鳩尾のあたりを押すと何かいけないものが溢れ出してきそうだった。わたしの体内には今まで溜め込んだ余分な栄養がたくさんあるから、少しくらい食事をしなくても生きていける気がする。無理やり食べ物を口に運ぶことは、必ずしも生命を維持するのに有効であるとは思えなかった。  朝ご飯に手をつけないまま正午になり、昼ご飯が運ばれてきた。部屋の外で母の小さなため息が聞こえた。 「色葉……」  ため息と一緒に吐き出したわたしの名前のあとには、何も言葉が続かなかった。かちゃかちゃと音を立て、母はお盆を持って去って行った。  尿意を感じ、わたしは部屋を出てすぐ隣にあるトイレに行った。食事を摂らないからトイレには一日二回程度しか行かないけれど、そのたった二回ですら酷く億劫だった。ドアを開けるたび、わたしの構築してきた世界が崩れてしまう気がするのだ。藁の家のようにあやふやで儚いわたしの世界。崩れてしまえば、また一から作り直さなくてはならない。  本当は世界とか、そういうものに頼らないで生きていたい。わたしは壊れた世界を積み上げながらいつも思う。自分の世界って、なんだか幼くて笑ってしまう概念だ。自分の世界を構築するって、まったくの作り話を聞かされるよりも滑稽だ。苦々しくて青くさい。真面目に追いかけている自分が馬鹿馬鹿しくて、まともじゃない気がする。それでも律儀に、壊れたら作り直してしまうわたしがいる。矛盾していてキモチワルイ。  便座を離れ水を流すときにふと、便器に溜まった尿が目に入った。生命力の塊みたいな真っ黄色をしていた。流すのを躊躇うほど輝いているそれは、確かにわたしから出たものだった。ほら、食事を摂らなくたってこんな春の産声のような綺麗な色のおしっこが出るじゃない。生きて、生きて、と叫んでいるじゃない。わたしはきっと何も間違っていない。  日が暮れてきた頃、薄い壁の向こうで窓の開く音がした。わたしはすかさず自室の窓を開け放った。 「拓波」  外は小雨が降っていた。雨音の合間に、兄が長く息を吐いた気配が伝わってきた。煙草でも吸っているような雰囲気だが、兄は煙草が大嫌いだと言っていた。無遠慮に匂いが纏わりついてくるところが嫌なのだと。 「おう」  ややあって、兄が短く返事をした。暗がりにぼうっと浮かび上がる蝋燭のような声だった。 「拓波、寝てたんでしょ」 「寝てねえよ」 「勉強?」 「まあな」 「拓波って何学科だっけ」 「哲学科」 「難しそう」 「まあな」 「めっちゃ考えてそうなイメージ」 「頭がパンクするまで考えるよ。生きるとは何か、とか」 「生きるとは何なの?」 「知らねえな」 「駄目学生だー」  わたしが笑うと、兄も声を上げて笑った。掠れた声が雨に混じって、わたしの耳の中で一つの音楽になる。心地良くて意識が反転しそうだ。 「実際のところ、考えても考えても答えなんて出ないんだよ。これだ、と思った結論も、次の日に冷静に考えてみたらどこかちぐはぐで胡散臭く思えたりな」 「そんなもんなんだねえ」 「だから俺は、何事にも答えは存在しない、って結論づけることにした」 「それって、あり?」 「知らねえ」 「拓波、哲学科向いてないんじゃないの」 「それを言うな」 「でもさ、数学とかには答えはあるじゃん」 「あるな」 「それはどうなるの。何事にも、に含まれないんじゃないの」 「数学のことは数学科に任せておけばいいんだよ」 「大雑把過ぎ」 「俺は本来、考え過ぎるタチなんだ。意識して考えないようにしないともたないんだよ」 「じゃあ哲学科になんていたら駄目じゃん」 「そうだな」  兄が笑うたび、喉に引っかかる声がわたしの鼓膜をくすぐる。わたしの体に爪痕を残すように、兄はやさしく声を発する。何故、どうして、と問うことは、わたしと兄の間には必要ない。言わなくてもわかるから、とかそんな安易なことではない。走ると無条件で呼吸が苦しくなるように、けれどそこには身体の様々な機能が関係しているように、わたしと兄は無数の選択の中から選び選ばれて、ここで血を分けているのだろう。柔らかい胸がわたしを抱いているようだ。 「拓波、わたしも実は考え過ぎるタイプなんだよ」 「知ってる」 「え、本当?」 「お前は俺より深く考えるからな。て言うより、気にし過ぎだ」 「そうなのかな」 「あんまり気にすんなよ。いいことないぞ」 「でも」 「俺みたいになるぞ」 「え?」 「まあ、考えるのもほどほどにな。じゃあ、もう戻るわ」  そう言って、兄は窓を閉めてしまった。 「拓波」  呼びかけても、閉じられた窓の向こうにいる兄は何の反応もしてくれなかった。諦めてわたしも窓を閉めた。かすかな雨音も聞こえなくなった。  ***  わたしが八歳くらいのとき、わたしと兄を置いて両親が出て行ってしまったことがあった。何てことはない、ただ知り合いのお通夜に参列しに行っただけなのだが、その事情を知らされていなかったわたしは酷く取り乱した。兄がわたしを抱きしめ、父さんたちは帰ってくるから、と宥めてくれても、一度不安に取り憑かれたわたしには届かなかった。兄の腕の中でもがき、なおもわたしを抱こうとする手を振り払った。そのくせ体が自由になると、自分を守ってくれる大切な鎧をなくしたような気になり、一人ぼっちで宙に浮いた感覚に襲われた。堪らず兄に抱きつき、泣きじゃくった。兄は辛抱強くわたしをあやした。  父さんたちは帰ってくるって、大丈夫だから。何も心配ない。お葬式に行ってるだけだから。  お葬式?  色葉はまだ行ったことなかったか。おれは小さい頃ひいばあちゃんのお葬式に行ったことがあるんだ。  ひいおばあちゃん?  仏壇に写真があるだろ。その人だよ。  ああ。  お通夜と告別式っていうのがあって、お通夜は夜にやるんだ。父さんたちはそのお通夜に行ってるんだよ。だから、遅くなるけどちゃんと帰ってくるから。心配するなよ。  うん。  兄の腕は細く頼りなくて、大丈夫だと言われてもちっとも説得力がなかった。母にべったりだったわたしは、柔らかくあたたかい腕を知っているから、兄の折れそうなひんやりとした腕では物足りなかった。  外は雨が降っていた。兄はわたしを抱きながら、時折窓の外を眺めていた。部屋の中は電気がついていたけれど、カーテンは開いていた。兄は目を細めたり見開いたりして、入ってくる光を調節しているようだった。外を走る車のテールランプの赤い光が、彷徨うように壁に映し出される。兄は目で追っていたけれど、わたしは怖くなって兄の薄い胸板に顔を埋めた。  拓波、カーテン閉めて。  いいけど、じゃあおりてくれる?  嫌。  おりないと閉められないよ。  嫌ぁ。  兄はぐずるわたしを抱き上げ、よろよろとカーテンを閉めた。わたしはコアラのように兄にしがみついていた。  夜九時過ぎに父と母が帰ってくると、わたしは兄の膝から飛び降りて玄関へ駆けて行った。母に抱きつき、父に頭を撫でられているわたしを、兄は少し離れたところから眩しそうに目を瞬かせて見ていた。それから静かに自分の部屋へ入り、翌朝まで出てこなかった。  ***  光の薄い朝だった。 体が重くて、目が醒めていてもすぐには起き上がれなかった。外の様子を見たかったけれど、手を伸ばしてカーテンを開けることすら億劫だった。布団にくるまってじっとしていた。  朝のルーティンができない日は、一日中気分が乗らないことが多い。音楽を聴いてもどこか空虚で、やる気ゲージが満タンにならない。体の中に余計な水分が溜まっていて、少し動くごとにたぷんたぷんと揺れる。雨は嫌いではないけれど、あまり降り続くと体の水分量が増す気がして面倒だった。  ベッドの中でだらだらと過ごしているとコンコン、とドアがノックされ、やや遅れて母の声がした。そうか、もうとっくに起きる時間は過ぎていたのか、と気づいた。 「色葉、ご飯食べてちょうだい。聞こえてるんでしょう?」  母の声は思い詰めたように甲高かった。昨日までの何か諦めたような声とは違う、異質なトーンだった。 「色葉、色葉……」  そうかと思えば、急に声が震え出す。うわ言のようにわたしの名前を口にする。ドアの向こうで母に何が起こっているのかわからなくて、わたしは淡い恐怖を覚えた。 「ご飯食べないと死んじゃうわよ。あなたまで、そんなことになったら……」  母の啜り泣く声がドアを通り越してわたしの部屋に充満する。一定の間隔で聞こえる、母の鼻を啜る音が耳障りだった。食事をしないくらいでいちいち泣かないでほしい。わたしと誰を重ねているのか知らないが、大袈裟な気がして不快だった。わたしは重い体を無理やり起こし、引きずるようにしてドアの前まで行った。  ドアを開けると、母が廊下に座り込んでいた。わたしの顔を見上げ、はっと息を呑んだ。 「い、いろは……」 「鍵ないんだからさ、開ければいいじゃん。別に入って来いって言ってるわけじゃないけど、そうやって泣くくらいなら押しかけてくればいいじゃん。大体、ご飯食べないからって何? そんなに泣くこと? いちいち定時に部屋の前に置かれたんじゃ、食べる気にもならないよ。少し放っておいて」  わたしは母を見下ろして吐き捨てた。思ったよりも大きな声が出なかったのは、食べていないからお腹に力が入らないせいだろう。迫力のある感じで言いたかったのに、母には淡々と言い並べたように聞こえたかもしれない。  ドアを思い切り閉めた。入ってくればいいじゃん、と言ってしまったから、母がすかさずドアを開けるのではないかと身構えていたが、しばらくすると母の気配が遠くなっていった。階段を降りる音が聞こえたので、わたしはそっとドアノブを回した。  部屋の前には何もなかった。持ってきたであろう食事も、きっと母がそのまま下げたのだ。空っぽな気持ちになった。体を貫いた空洞を風が吹き抜けていく。わたしは母に叩きつけた言葉には大きな矛盾があったことに気づいた。  ベッドまで戻り、ばふんと身を投げる。掛け布団に埋もれた顔と、中途半端にベッドからはみ出た両足は別の生き物のような気がした。上半身を置いて、足だけどこかへ行ってしまっても文句は言えない。それくらい自分の体に対するこだわりが薄くなっていた。むしろ、両足がいなくなることでこの重だるい体が少しでも軽くなるのなら、そのほうがいいとすら思った。  息が苦しくなってきた。顔を右に向けると、ベッドの前柵が見えた。小学生の頃から使っているベッドなので、柵にはポケモンやポムポムプリンなどのシールが貼ってある。日に焼けて色が薄くなり角がパリパリと捲れているシールを眺め、このポケモンは拓波がくれたものだったな、と思い出した。  わたしが父に怒られて泣きじゃくっていたとき、兄が当時たくさん集めていたポケモンのシールの中から、わたしの好きなカビゴンを一枚くれたのだった。  兄は最初わたしのおでこにカビゴンを貼って、色葉は強い子、カビゴンがついてるからね、と言っていた。わたしが泣き止むと、おでこからベッドの柵に貼り直し、いつでもカビゴンが見守っているよ、と言って笑った。  今では随分と色褪せてしまったけれど、カビゴンはまだわたしを見守り続けてくれている。わたしは右腕を伸ばして、シールに触れた。指先に乾いた感触が伝わった。  ようやく動く気になり、まずは閉めっぱなしだったカーテンを開けた。外はやっぱり雨で、ベランダの手すりに落ちてくる雨の粒が大きかった。遠くの建物を背景にして、雨が斜めに降っているのがわかった。窓を閉めていてもかすかに音が聞こえるくらい強い雨だった。  今日は雨音をBGMにすることにした。床に転がっていたヘッドホンは、コードを束ねて机の上に置いた。本棚から一冊小説を抜き取り、くるりと背を向け寄りかかった。小説はわたしが中学生のときに兄が貸してくれたものだった。当時はまったく興味がなくて長い間本棚の肥やしになっていたが、今になって読んでみようかという気になった。川端康成の、雪国。  兄は古い本が好きだった。古い本というのは文字通り、古本屋で埃に塗れた、背表紙が茶色く焼けた本のことだ。兄は高校生くらいの頃から定期的に古本屋で小説を大量に買い込んで、自室でひっそりと読むことを好んでいたようだ。  わたしは普段あまり読書をしないが、買うなら新しい本がよかった。ページをめくるたびに手に伝わってくるパリッとした感触が心地良いからだ。反対に兄は、くたっと萎びた感触が好きだと言う。  雪国は兄が一番面白いと言っていた小説だった。ただでさえくたくたの古本を繰り返し読むものだから、ページは擦り減り、見た目は煮詰めたように変色していた。面白い本貸して、と兄に言ったら、この小説を貸してくれたのだ。  兄は一体この小説のどの辺を面白いと思ったのか、知りたいと思った。雨の音に満ちた部屋で一人ページをめくるが、読めば読むほどに兄の感性がどこを指しているのかわからなくなった。  難しいわけではない。むしろ文章は読みやすい。綺麗な表現もたくさんあった。けれど、そのどれもが兄の感性というフィルターを通すと途端に曇って見えなくなっていくのだった。兄に触れようとしたのに、実際に触れたのは兄を映した鏡だった。そんな感じだ。  随分と集中していたようで、外はもう薄暗くなっていた。小説を本棚に戻すと同時に、隣の部屋から窓を開ける雑な音が聞こえた。  わたしも窓を開けた。冷えた空気が入ってきて、鼻の奥がツンとした。雨はまだ止んでいない。雨足は幾分弱まったようだ。 「拓波」  兄を呼ぶと、今日は間髪入れずに返事をしてくれた。 「おう」 「ねえ、雪国読んだよ」 「雪国?」 「前に貸してくれたでしょ」 「ああ、かなり前だろ。やっと読んだのか」 「うん。まあまあ面白かった」 「そうか」 「拓波は雪国が一番好きなんでしょ。どこがいいの?」 「今はもう一番じゃないよ」 「そうなの。じゃあ今は何が好きなの」 「わからないな。ちょっと前までは、ゲーテだった」 「何て人が書いたやつ?」 「ゲーテっていう人だよ。本の題名じゃない」 「へえ」 「興味なさそうだな」 「そんなことない」 「色葉は興味ないとき声のトーンが急に変わるからわかりやすいんだよ」 「えっ、本当に? 気づかなかった」  兄は掠れた声で笑った。  兄が雪国のどこが好きなのかは、結局わからなかった。もう一度同じ話題に戻すことはしなかった。流れてしまったものは、そのままでいい気がした。 「ねえ、拓波はさあ、何を目指してるの」 「何だよ、唐突に」 「大学で哲学学んでて、それで将来何になりたいの」 「さあな。見当もつかないな」 「自分のことなのに?」 「自分のことが自分では一番わからないんだよ。自分のことは自分が一番知ってる、なんて奴は薄っぺらな人間なんだ。テッシュペーパーよりもな」 「お、哲学科っぽいこと言った。最後のティッシュペーパーは余計だけど」 「お前こそ、将来どうしたいんだよ」 「わかりません」 「だろ? 夢とか目標を持って生きてる奴のほうが少ないんだよ」 「サンプル数があまりにも少ないと思うけど」 「お、小難しいこと言うなあ」 「統計の授業で習った」  兄はまたくく、と笑った。聞けば聞くほど、わたしは兄のこの笑い方が好きだ、と思う。両親の前ではほとんど笑わなくなった兄が、わたしの前では無防備に笑い声を上げる。窓越しで顔は見えないけれど、兄はきっと目を細めて笑っているのだろう。目の横にできる笑い皺が頭に浮かんできて、わたしは嬉しくなる。 「でもね、拓波。わたしは将来何になりたいとか夢も目標も特にないけど、この家からも出ていくかもしれないし、ずっと親の脛を齧ってるかもしれないけど、いや、早々に嫁いでいくかもしれないけど」 「前置きが長いな」 「拓波とは定期的にこうやって議論したい」 「議論なのか、これ」 「拓波が海外に行ってもう帰ってこないとか、遠くに行っちゃって会えなくなるの、嫌だ」  わたしが珍しく素直に自分の気持ちを言ったのに、拓波は息を飲んで貝のように押し黙った。呼びかけても返事をしない。沈黙が窓の外を行き来する。 「ごめんな」  やっと口を開いたと思えば、兄は謝罪の言葉を口にした。 「何が」 「ごめん」 「拓波?」 「もう閉めるぞ」  そう言って、兄は不自然なほど強引に話を切り、窓を閉めた。残されたわたしは、どういう気持ちになればいいのかわからず、ただ困惑していた。兄のごめんなは、かすかに震えていた。拓波、と呟くと惨めさのような感情が押し寄せてきた。何が兄の気分を損ねたのかわからなかった。わたしはただ、兄と会えなくなるのは寂しいと伝えたかっただけだった。  夜はなかなか眠りにつくことができなかった。天井を見上げると兄の癖毛に隠れた、澄んだ瞳が浮かんできた。寝返りを打つと、兄の掠れた笑い声が鼓膜を揺らしているような感じがする。隣の部屋からは何の音も聞こえてこない。兄がいるはずなのに、人の気配がまったくしなかった。  ***  中学二年の冬休み、大学受験を目前に控えた兄とカセットテープに自分たちの声を録音して遊んだことがある。父は仕事、母は確か買い物に出かけていたはずだった。わたしが父の部屋で見つけた古いカセットテープとプレイヤーの使い方を兄に聞いたのが始まりだった。  わたしからテープを受け取った兄は手の中で転がすように色んな角度から眺め、 「これはまだ録音する前のカセットじゃないのか」  と言った。 「どうしてわかるの?」 「アーティスト名も曲名も書いてないし」 「ねえ、これって録音できるんだっけ」 「できるけど」 「拓波、歌って! 録音しようよ」 「はあ?」 「歌手になりたい人とかがレコード会社にデモテープ送ったりするじゃん」 「お前は何をする気だよ」  父も母も受験が迫った兄には気を遣って、あまり刺激しないようにとよそよそしく振る舞っていた。母はわたしにも、お兄ちゃんの邪魔しちゃだめよ、と忠告していたけれど、わたしには夕食後勉強しに一人で自室に向かう兄の背中が寂しそうに見えていた。兄はこの頃になると、両親とはほとんど会話らしい会話をしなくなっていた。腫れ物に触るような両親の態度は、兄をますます無口にしているのではないかと思った。 「ほら、早く歌って」 「嫌だよ、お前が歌え」 「えー、じゃあ歌じゃなくて台詞を入れようよ。未来の自分へのメッセージ的な」 「俺はやらない。お前のを聞いててやる」 「だめだめ、拓波もやるの。妹命令」 「何だよそれ」 「いいから。それで、どうやって使うんだっけ」 「教えてやんねえ」  兄は話しかければちゃんと答えてくれる。からかえばからかい返してくるし、冗談を言えばつっこんでくれる。どうして両親が兄に遠慮をしているのか、わたしにはわからなかった。兄は柔らかで繊細な感性を持っていて、それは飴細工のようにキラキラと瞬いている。手を伸ばせば握り返してきてくれるのに、何故両親は兄を遠ざけるのだろう。わたしには理解できなかった。 「カセットテープにはな、A面とB面があるんだよ。録音できる時間も色々あるけど、これは六十分だな。A面とB面、それぞれ三十分ずつ録音できる。合わせて六十分ってわけ。最初はA面から入れるのな。カセットをプレイヤーにセットしてここの録音ボタンを押す。喋るときはマイクに向かってな」  教えないと言いつつも、兄は丁寧に使い方を説明してくれた。 「ちゃんと喋ってよ」 「だから俺はやんないって。ほら、録音するから、いくぞ」  ランプが赤く光った。 「えーと、えーと、色葉です。未来からやってきましたー、じゃなかった、過去からきました?」  わたしのぐだぐだな出だしに、兄が吹き出した。 「ちょっと、止めて止めて! やっぱり今のなし」 「バーカ、途中で止めらんねえよ」 「えっ、そうなの? じゃあ、えっと、わたしは今中学二年生です。拓波は受験生です。拓波、ガンバレー」 「色葉が邪魔してくるので全然集中できません」  あんなに録音を嫌がっていた兄が、横から割り込んできた。わたしは嬉しくなって、兄がたくさん喋ってくれるようにわざとくだらない話題を振った。兄の低い声がテープにはどのように録音されるのか楽しみだった。 「拓波の好きな食べ物は何ですかー」 「エビフライ」 「エビフライのどこが好きなんですかー」 「どこが? なんか、美味いから」 「エビフライの尻尾を残す人を見てどう思いますかー」 「お前の足がエビフライになれ」  わたしが笑い転げると、兄も声をあげて笑った。掠れた声がくすぐったかった。  その後母が帰ってくると、兄は今までの朗らかな空気が嘘のように身を固くし、わたしに小さく「じゃあな」と言って部屋へ戻ってしまった。録音ボタンは押したままだったような気がする。  ***  いつ、どうやって止めたのだろう。どこまで録音されているのかもわからない。わたしはあれからテープを一度も聴いていない。多分父の部屋に戻したと思うが、わたしの部屋を探せば出てくるような気もする。  兄と一緒に聴こうと思い立った。階段の踊り場の奥にある父の部屋にこっそり入り、音を立てないように探し回ったけれど、MD類は以前わたしがごっそり自室に持って帰ったので見当たらなかった。もともとカセットテープは一つしかなかったことを思い出した。  自分の部屋の中も探してみた。机の引き出し、押し入れ、がらくたばかりのクリアケースの中。どこにもなかった。もしかしたら、父が捨ててしまったのかもしれない。結構な古物だったから、きっと再生されなくなってしまったのだろう。わたしは諦めて、再びベッドの中へもぐった。さっき起きたばかりだったけれど、テープを探していたら疲れてしまった。  外は今日も雨が降っていた。 「秋雨前線が停滞しているからな」  兄の口調を真似してみる。わたしの高い声では空気がうまく震えなかった。  寝返りをうち、目を閉じる。瞼がぴるぴると震えて、うまく閉じることができない。目を閉じたくないのに無理矢理閉じようとするとき、よくこうなる。わたしの瞼の内側に強力なバネでもついているみたいだ。  夕方まで、まだまだ時間がある。わたしは兄と話がしたかった。何でもいい、くだらない話。兄と話すこと以外は何もしたくなかった。体が重い。重力がわたしの体をどこかへ連れて行こうとする。わたしが昼間窓を開けても、兄は夕方になるまで絶対に窓を開けない。いつから兄と、こんな恋人の慎ましい逢瀬みたいなことをするようになったのだろう。  階段を上る足音とともに、カチャカチャという食器のこすれ合う音が部屋の外から聞こえてきた。母がまた食事を持ってきたのだ。ノックされると思い、わたしはベッドの中で縮こまった。耳障りな音は、今はすべて聞きたくなかった。  けれど、しばらく経っても木のドアは音を立てなかった。気配はそこにあるのに、母は何のアクションも起こさない。ただ静かに、部屋の外にいるだけだ。  気を抜くと、いるのかいないのかさえわからなくなりそうだった。気配が曖昧に空気に溶けるのを、母はじっと待っているようだった。そして、それは七割くらい達成できているように感じた。  ずず、と言う音が何度か聞こえて、母は泣いているのだと気づいた。鼻を啜る音が、やけにはっきりと響いていた。母は泣いていることをわたしに悟らせるためにわざと音を立てているのかもしれない。そう思ったら、気持ちが猫の毛のように逆立った。もちろん、母の真意はわからない。静かに泣くことは、実は難しいのかもしれない。でも、一度そう思ってしまうと、もう駄目だった。わたしは頭の上から布団をかぶって、ダンゴムシのように丸くなった。母が鼻を啜る音はまったく聞こえなくなった。  布団の中にすっぽりと入ると、自分は冬眠している動物や土の中でひっそりと息をする幼虫のようだと思えてくる。彼らはやがて目を覚まし、広い世界に飛び出す日がくる。朝日を浴びて輝く体を存分に震わせ、歩み出すのだ。  わたしにはそんな日が来るのだろうか、とふと思った。季節は巡るし、朝と夜は交互にやって来る。けれど、わたしはその輪の中からはじかれてしまったような気がしてならない。秋に閉じ込められてしまったと、諦めめいた感情が皮脂腺を通って染み出してくる。  醒めない夢を見ているようだった。  いつの間にか、そのまま眠ってしまったらしい。息苦しくなって布団の中から顔を出した。部屋の外に意識を集中させたけれど、母の気配はもう消えていた。代わりに隣の部屋の窓が開く音がして、兄の気配が濃くなった。わたしは待っていましたとばかりにベッドを飛び降り、自室の窓を開け放った。 「拓波!」  兄とは昨日微妙な感じで終わっているので、声をかけたあと答えてくれるかどうか、少し不安だった。 「おう」  けれど、兄はいつも通りぶっきらぼうに返事をした。途端、憂いが霧散していく。 「ねえ、拓波。ずっと前に二人で録音したカセットテープ知らない?」 「何だっけ、それ」 「拓波が受験生のとき、一緒に録音したじゃん。お父さんのカセットテープ。エビフライがどうのこうの、とか」 「エビフライ?」 「拓波はエビフライが好きって言ってた」 「何も覚えてねえな」 「じゃあ拓波は持ってないのね?」 「持ってない」 「そっか。どこに行っちゃったんだろ」 「今必要なのか?」 「必要ってわけじゃないけど。拓波と聴きたいなと思って」 「残念だな」  大して残念でもなさそうに、兄は言う。  とりあえず話を合わせておこう、という魂胆が見え見えな兄の相槌は嫌いではなかった。深く同情されたり共感されることは、時としてわたしには重すぎる。もっと軽くていいのだ。兄みたいに適当でいい。軽快な合いの手が、心に積もった埃を払うことだってある。 「拓波」 「何だよ」 「エビフライは今でも好き?」 「別に。そんなに」 「拓波の好きなものって何?」 「食べ物で?」 「何でもいいよ」 「漠然としてんなあ」 「いいから」 「俺には好きなものなんてない」 「お、何かの哲学?」 「違う。本当にないんだよ」 「ないって、何で」 「昔はそれなりにあったのかもしれないけどな」 「読書は? 哲学は? 音楽は?」 「好きとは違う気がする。わかんねえ」  放り出すように兄は言った。  好きなものがないという感覚は、わたしにはわからない。わたしには絶対的に信頼を寄せている音楽がある。偉大すぎて好きとか嫌いの次元じゃない、というならわかる気がするけれど、兄の言う「好きなものがない」はきっと違う意味なのだろう。 「ねえ、拓波は彼女がいたことある?」 「は? 何でそんなこと訊くんだよ」 「いいから」 「ない」 「好きな人は?」 「知らねえよ。覚えてない」 「はぐらかさないで」 「覚えてないって。他人に興味ねえし」 「わたしにも興味がない?」 「何でお前の話になるんだよ」 「いいから」 「知らねえ」  乱暴にそう言ったあと、兄は黙り込んだ。わたしがいくら「拓波」と呼びかけても、返事もしてくれない。兄の荒い息遣いが夕闇に沈んでいく。いや、これはわたしの息遣いだ。兄の部屋からはじりじりとした沈黙が滲んでいた。  でも、窓は閉めないんだな。  前はぴしゃりと閉められたのに、今日は何も喋らない割りに窓は開けたままだ。 「拓波」  もう一度だけ、兄の名前を呼ぶ。兄のくしゃくしゃな頭をやさしく撫でるイメージで。  やはり、沈黙。  それでもわたしは兄の言葉を待った。 「大切、だった」  突然ぽっかりと穴が開くように、兄が呟いた。 「え?」 「それだけ。じゃあな」  窓が閉まる。シャッとカーテンを引く音も。  大切、だった。  兄は確かにそう言った。過去形に少し引っかかる。けれど、それ以上は考えてはいけない気がした。兄とわたしの間にある愛おしい隔たりが、深追いすることで掻き消えてしまいそうだから。  夕闇の濃い紫色を一瞥して、わたしは窓を閉めた。  ***  その出来事が起こったのは、わたしが高校二年の春だった。  学校帰りに友人と二人でマックに寄り、化学の先生の眼鏡がいつも曇っていることだの、クラスの男子の顔面レベルが著しく低いことだの、数学マジ鬼テストやばい絶対赤点だの、とめどなく溢れる湧水のように話したあと。「塾だるい」と言う友人に「頑張って」とファイティングポーズをすると、本気で嫌そうな顔をされた。  友人の乗るバスを一緒に待ち、三分遅れのバスに乗り込む彼女に手を振ると、わたしは急に手持ち無沙汰になった。何かを物色したい気分になり、いつもはあまり寄ることのない駅の東側のスーパーに寄ってみることにした。  名前がローマ時代の人名にありそうな田舎のスーパー。入り口が狭くて、商品の陳列も雑なパッとしない店。これと言ってめぼしいものも見当たらず、三分足らずで飽きた。  踵を返し棚の間から出ようとすると、反対側からこちらの棚に移ってくる人影があった。陳列された商品をぼんやりと眺め、足を気怠そうに突き出しながら歩くその人は、わたしの兄だった。  兄とこんなところで出くわすなんて。前にこのスーパーは品揃えが悪いから行かない、などと言っていたのに。どういう風の吹き回しか、わたしたち兄妹は同日同時刻に滅多に行かない不便なスーパーに来た。  兄はまだわたしの存在には気づいていないようだった。小さなお菓子の箱を手に取り、パッケージをじっと見つめている。  そっと近づいて驚かせようと思った。一歩踏み出そうとしたそのとき。  す、と音がしそうなほど流れるような手つきで、兄は肩にかけていたトートバッグの中にその箱を入れた。そして、周りを見渡すこともせず、さっきと同じ気怠げな足取りで逆側の通路に消えて行った。  耳の穴が詰まったような感覚に陥った。バックで流れていたはずの馬鹿みたいに商品名を繰り返すCMソングが、不気味なくらいに静かになった。  わたしはしばらくその場から動けなかった。兄が引き返して来て、箱を棚に戻すかもしれない。そんな淡い期待は、店内の床を滑るように渡る粉塵にも満たない憐れなものだった。  ここにいてはいけない。  わたしはそんな思いに駆られた。わたしの存在を揺るがす、とてつもない脅威が迫っていた。嘘には見えなかった。今起こったことは、兄がしたことは、嘘なんかじゃない。  わたしは自分のやるべきことを咄嗟に探した。兄の妹であるために。兄と家族でいるために。兄と心地よい関係を続けるために。わたしはどう振る舞って、世間にどんな風に笑いかければよいのかを必死で探った。  家に帰ったあとも、わたしは兄に何も訊けなかった。兄は平然としていたし、けれどどこかぼんやりとした雰囲気でもあった。陳列棚を眺めているときのような目で、食卓の上の箸や皿を見ていた。食べ終わってすぐに部屋に戻るのは、いつもと同じだった。  わたしは兄に聞きたかった。どうして、と。盗んだことなんかじゃない。そんなことじゃない。どうして、あれなの。あのお菓子なの。  小さな箱。その中にはラムネしか入っていない。あとはシールが一枚。ポケモンのシール。十分の一の確率でカビゴンが出る。兄が盗んだ箱の中には何のポケモンが入っていたのだろう。  わたしは途中で考えることをやめてしまって、それからずっとわからずじまいだ。  ***  鉛の匂いの重怠い一日が、また始まる。  体は日に日に重量挙げのバーベルのように重くなっていき、ベッドから起き上がることもままならない。食事をまともに摂っていないのだから軽くなってもいいはずなのに、何故だろう。机の上のヘッドホンに手を伸ばすことさえ億劫だ。  仕方がないから、耳を澄ます。かすかに雨音が聞こえる。停滞している秋雨前線は、いつになったら移動するのだろう。弱々しくてBGMにもならない。  何をしているのか、自分でもわからない。わたしはずっと大して広くもない部屋の中に閉じこもって、秒針が一四四〇回回るのをぼんやりとやり過ごしている。一日が水を吸った乾燥わかめのように、ふやふやと増殖していく。増えに増えた一日は、わたしをさらに部屋の奥へ追いやって、がんじがらめに縛りつける。商品棚に隙間なく詰め込まれた牛乳パックのようだ。  息ができないから、兄を呼ぶ。窓を開けると、沈澱した一日がゆっくりと撹拌されてほんの少しの空気穴ができる。兄と話すと、そこから新鮮な空気が送り込まれるのだ。  兄の横顔を思い浮かべる。お菓子の箱をトートバッグにしまったときの、ゆるく閉じられた唇。長い前髪の間から見え隠れしていた切長の目。  泣いていたのだろうか。兄は何かに締めつけられていたのだろうか。華奢な胸を、固く激しく。  わたしは兄の何分の一なのだろう。兄の中でわたしが占める割合、ということではなくて、兄の全身、全心、全魂の何分の一がわたしなのだろうか。  深い秋の裾野に佇む兄を、わたしは初めて見た気がした。兄の心にはわたしや両親ではたどり着けない裾野が広がっている。兄自身でさえ最後まで歩き切ることができないのかもしれない。  兄曰く、わたしは考えすぎるタチらしい。確かにそうだ。思考が止まらない。とりとめもないことを永遠に考えている。時計を見ると九時を過ぎていた。母が食事を持ってきた気配がしなかった。考えの深みにはまって気づかなかったのかもしれない。ドアを開けて確かめることはしなかった。わたしは再び目を閉じた。  夕方に目が覚めた。あと一時間もしたら兄が窓を開ける時間になる。決まっているわけではないけれど、いつも大体似たような時間帯に窓が開く。ベッドの中にいるとまた眠ってしまいそうなので、這い出て窓辺まで移動した。  本棚に寄りかかり、英和辞典をぱららと開く。真ん中あたりに一枚の写真が挟まっていた。小学二、三年の頃の写真。兄とのどアップのツーショットは珍しい。わたしは兄に頬を寄せ、満面の笑みでピースをしている。髪が短く、前歯が一本ない。兄は正面ではなくわたしのほうに目をやり、微笑んでいる。片側にできたえくぼがあどけなさを残している。  わたしはこの写真が大好きだった。リビングで撮った何気ない一枚。けれど、兄とわたしのすべてが詰まったような一枚。草食動物のようなやさしい目をした兄と、生意気そうな笑顔の妹。肌身離さず持っているのは何だかこそばゆいから、本棚の適当な本に無造作に挟んでいる。  わたしは写真をページの隙間に戻し、そっと辞典を閉じた。ぱたん、という音に合わせ、わたしを構成するどこか一部分のサイクルが終わった気がした。もしかしたら、何かが始まった音だったのかもしれない。体の内外で起こるさまざまな事象はいつも、気の抜けた突拍子もない独りよがりの音で始まり、終わる。触れることのできないあやふやな音。それが始まりか終わりかもわからない。  けれど、確実に音とともにやってきて、音とともに去ってゆくのだ。音楽ともつかない、不可思議な揺れの塊。  単調なリズムが恋しくなってきた。ピアノで言えば、右手は自由にメロディーラインをなぞっていても、左手はずっと同じ音を奏で続けているイメージ。ラヴェルのバレエ曲、ボレロなんかちょうどいいかもしれない。ピアノではなく小太鼓だけれど、曲の最初から最後までずっと狂いなく刻み続けられる小気味いい音は、今わたしが欲している類のものだった。  時計を見る。あと十分もしないうちに兄が窓を開けるだろう。ボレロを聴くのは兄と話したあとにしよう。わたしは机の上のヘッドホンに伸ばしかけた手を引っ込めた。本棚に背を預け、耳を澄ませる。隣の部屋にいる兄の足音一つ聞き逃さないように。  ああ、兄との会話もわたしが求めているリズムだ。  そう気づいた。兄の打つぶっきらぼうな相槌、兄と話すときに出るわたしの口癖、短い言葉のテンポのいいやり取りは、兄とわたしだけが生み出すことのできる音楽だ。わたしだけでは到底不可能だし、兄以外ではテンポが違ってきてしまう。兄とわたしの組み合わせだけが、わたしの欲求を満たす音楽を奏でることができる。  素晴らしいと思った。兄と会話をする意義がまた一つ増えた。兄はわたしの音楽だ。窓が開いたら真っ先に言ってやろう。兄はまた低い声で笑うかもしれない。お前にしては哲学的だな、とからかわれるかもしれない。早く早く、兄と話がしたかった。  けれど、時間になっても窓は開かなかった。夕闇が降りて、外が真っ暗になって、雨足が強くなっても、兄の部屋の窓が開く音はしなかった。  雨がベランダの柵を叩く。夜の底辺から転げ落ちてきたような降り方だった。もう絶対兄は出てこないとわかる時間に、わたしは自室の窓を開けた。身を乗り出して、兄の部屋を覗く。カーテンが固く閉められていて、中の様子は見えない。兄の部屋はしんと静かで、雨で浸水しているのではないかと不安になるほどだった。  こんな日もあるのか、と無理矢理納得する方法をわたしは選んだ。眠っていた、勉強をしていた、何となく面倒だった。きっとそんなどうってことない理由なのだろう。  ボレロを聴くまでもなく、雨音もまたわたしの望むリズムで柵にあたり弾けていた。眠れない夜のお供にはちょうどいい、とわたしは形だけ目を閉じた。  ***  兄がお菓子の箱を盗んだ日から、わたしは兄との距離感がわからなくなってしまった。もともと兄から話しかけてくることはあまりなかったが、わたしから話題をふることもうまくできなくなった。口を開けば、ポケモンのシールの入ったお菓子を盗んだ理由を問いただしてしまいそうだった。  箱に入っていたシールはカビゴンだった?  もしカビゴンが入っていたら、どうしていたの?  兄のぼんやりとした横顔をこっそりと眺め、わたしは今にも飛び出しそうな質問を喉の奥に押し込んだ。  わたしが話しかけなくても、兄の時間は過ぎてゆく。大学に電車で通う兄は、徒歩通学のわたしよりも少し早く家を出る。朝、食卓でトーストを咀嚼していると、リビングを出て行こうとする兄と目が合った。ははっ、と掠れた声で笑う。 「お前、なんかリスみたいだな」 「む?」 「もきゅもきゅって音が聞こえてきそうな食べ方」  そう言って、兄は玄関へ向かった。  珍しいこともあるもんだ、と兄の背中を見送りながら思った。笑い声に気怠さは含まれていなかった。口調も皮肉っぽくて、いつもの兄のものだった。ただ表情だけは、最後の力を振り絞るように儚げだった。すべてを出し切ったと語るスポーツ選手のように、発光した表情にも見えた。  閉まったドアを見つめ、わたしは今日やるべきことを一つ思いついた。それをわたしがやったからと言って兄がどうにかなるものでもないけれど。兄が世間から、家族から、嫌われたりしないように、擦っても取れないレッテルを貼られないように、わたしがどうにかしようと思ったのだ。  学校帰り、友人からのカラオケの誘いを断り、足早にスーパーへ向かった。品揃えの悪いくたびれた駅の東側のスーパー。  店内に入るとき、何もしていないのに心臓がぐるんとひっくり返る心地がした。野菜コーナーを左に曲がり少し進むと、お菓子の棚がある。通路を挟んで両面に並んだスナック類やチョコレート菓子。左の棚の中央あたりに、あの箱が置いてある。通路の向こうの精肉コーナーからは、やたらとトーンの高い女性の「ジューシーでやっわらかぁ」と言う、ステーキのCMが聞こえてくる。  あの箱に手を伸ばす。パッケージに描かれたピカチュウとイーブイがわたしを見据える。箱を手に取る。裏側に小さくカビゴンも描かれてある。しばらくパッケージを見つめる。あれ、ピカチュウの顔ってこんなだっけ、と思い至る一秒前までじっと見つめる。  はっと我に返った。体が前のめりになっていた。慌てて周りを見渡す。誰もいない。一番いて欲しくない人の姿もない。わたしは唾を飲んで、箱を持ったまま一歩踏み出した。  レジには誰も並んでいなかった。髪を一本に結わえた、兄と同じくらいの歳頃の女の子が暇そうに爪を撫でていた。普通小さな子供が手に取るポケモンのシール付きのお菓子を、制服を着た女子高生が買う。別に誰が買ってもいいはずだけれど、若い店員がパッケージにバーコードリーダーをあてる瞬間、思わず目をぎゅっと瞑った。  表示された金額をちょうど払い、レジをあとにする。財布とお菓子の箱をリュックにしまい店を出ようとしたところで、はたと気づいた。もう一度リュックから財布を取り出し、小銭を数える。ポケモンのお菓子は七十二円。財布の中には百円玉が二枚と十円玉が四枚。わたしは百円玉をつまみ上げ、出口の手前に設置されてある募金箱に入れた。数年前に起こった震災の被災地へ送る募金だった。わたしは何食わぬ顔に見えるよう必死で装って、店を出た。  家に帰る途中、何度も後ろを振り返りながら歩いた。一番いて欲しくない人の姿は、家に着くまでどこにも見当たらなかった。  明日になれば兄と普通に話せるだろう、と思った。二十八円分の善良とつぐないと優越が、わたしの心臓の上でやじろべえのようにゆらゆらと揺れていた。  家に着き玄関のドアを開けると同時に、階段の下に倒れている母の姿が目に飛び込んできた。ひどく震えていて、一人では起き上がれない様子だった。階段から落ちて怪我をしたのかと思い、「お母さん!」と慌てて駆け寄る。  母は赤ん坊のように「あー、あ、あ……」と繰り返し、わたしにしがみついてきた。指の力は強く、爪がわたしの両腕に食い込んだ。母は小さな子供がいやいやをするように首を振って、何かを言おうとしている。 「おに……い……おにい……」  口がうまく開かないようだった。床に投げ出された足もびくんびくんと波打つだけで、力が入らないようだ。なのに、皮膚を突き破るほどとてつもない力で、わたしの腕に縋っている。 「どうしたの、ねえ、お母さん!」 「お、お、にぃぃぃ……」  母はぶるぶると手を震わせながら、階段の上を指差した。 「おにい……ゃん……」 「お兄ちゃん?」  言葉に出してみると咄嗟に違和感が走った。お兄ちゃんなんて普段呼ばないから。緊迫しているのにもかかわらず、違和感に足止めされている自分が滑稽に思えた。  わたしは立ち上がって二階へ向かった。やさしく体を離したのに母はどたっと床に崩れ落ち、つんざくような悲鳴を上げた。  階段を駆け上がり、わたしの部屋の前を通り過ぎる。空気がひゅんと冷たくなった気がした。  兄の部屋のドアは開いていた。開いていて、中の様子がはっきりと見えた。  わたしの部屋と同じ間取り、でもベッドと机の位置が違う、久しぶりに見た兄の部屋。その奥で、兄は、  兄は  ***  ぱちん、と弾けるように音が鳴った。シャボン玉よりは強固で、風船よりは虚無な音だった。部屋の中から鳴ったのか、外からなのかわからない。あるいはわたしの体のどこかから鳴った音なのかもしれない。雨が上がるように醒めていくのがわかった。  真夜中だった。わたしはベッドから飛び起き、隣の部屋に走った。  固く閉じられたドアを力任せに開ける。勢いよく開いたドアが、廊下の壁に激突した。手探りで部屋の電気をつける。明るくなった兄の部屋。  ベッドが左の壁側に、机が右に。本棚はわたしの部屋と同じ右の窓側。家具は揃っているのに、がらんどうの部屋。少し埃っぽい。カーテンレールがひっそりとたわんでいた。  兄はいなかった。当たり前だ。  中へと足を踏み入れる。目が痒い。机の上と本棚には、ぶ厚い哲学関係の本が並んでいる。どれも手に取る気にならないほど難しそうだ。  本棚の一番下の小さなかごの中に、見覚えのあるカセットプレイヤーが入っていた。  なんだ、やっぱり拓波が持っていたんじゃん。  聴こうとは思わなかった。兄と一緒に聴きたかったのだ。  崩れるな、と思ったらもうだめだった。うっすらと埃が積もった兄の部屋で、わたしはついに声を上げた。  ごうごうと窓を叩く激しい雨が体を潰してしまいそうだった。階段を駆け上ってくる足音がかすかに聞こえた。  兄の部屋の匂いを、わたしは知らなかった。嗅いだことのない匂いが、わたしをますます遠く遠くへ押し流していった。  わたしの声は、からっぽな兄の部屋に吸い込まれる。吸い込まれて、かき消える。  何もなかった。言葉一つも。  きっと幻だったのだ。停滞していただけなのだ。秋雨前線のように。  降り止まぬ雨のただ中で、わたしはほんの短い夢から醒めた。
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