ただ渡したくて伝えたくて

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ただ渡したくて伝えたくて

 田舎の海辺に戻ってきていた。  白い砂浜に波が寄せては返す。生きてる人間の寝息のように穏やかで、波音は子守唄のようにも聞こえてくる。  母に似た優しさに引き寄せられて、波打ち際へと足が進む。  海水が足首まで浸かったかと思うと引いていき、ぬかるんだ砂があらわになった。そこは海なのか陸なのか。  渚という言葉があるけれど、その場所は曖昧な境界線だなと思う。  それは、彼岸に行かずに漂っている俺がいる場所と同じのように感じられる。 「もうここにいるのはやめようか」  境界線に立ったまま陽が水平線に沈み始めたとき、母なる海に抱かれ海に還るのも悪くない気がようやくしてきた。海へと彼岸へと一歩を踏みだす。 「待って」  声がして、足を止めた。その声は魂か箱からしたかと一瞬思ったけど違った。うしろからだ。  振り返るとそこには菊地――。 「ヒナ」 「ユウタ!」  やっと全て思いだした。彼女はヒナで、俺はユウタ。この浜辺で永遠の愛を誓う予定だったけど、俺はオッサンを助けた代わりに沈められたのだっけ。あのとき、彼女は車で待っていたから無事だったのだろう。  思いだしついでに、海に母はいないとも理解しだしていた。俺の母はまだ健在で内陸にいる。でも、やつれたヒナを見たら、向こうへ行くべきなんだとわかった。「病みますよ」と占い師の言葉が耳の奥で響いてくる。 「ごめん」  抱きしめ合おうと伸ばしてきた彼女の手に箱を握らせ、海へと走りこむ。目的は達成された。贈りものは贈るべき相手に渡せた。 「待ってよ!」  腕が取られた。まさか、彼女は海のなかにまで追いかけてきて、肩まで浸かっている。 「警備員に聞いて、もしかしてと思ってきたら、また会えたのに。もう行ってしまうの?」  潮が栗色の髪や長い(まつげ)にかかり、黄昏のなかで雫はきらきらと黄金(こがね)色に輝いた。  俺は抱きしめたくなる衝動を抑え、目をそらす。 「これがキミのためなんだ。俺がいると、俺のせいでキミは病んでしまう。だからもう、俺のことは忘れて幸せになってくれ」 「そう、なのね」  彼女は手を離すと、渡した贈りものを開けた。二人のための二つのシルバーリングが夕日にきらめいた。 「指輪だけあっても意味ないじゃない。一緒にはめる相手がいないと」 「ごめん。でもどうしても渡して気持ちを伝えておきたくて」 「愛してる」  俺が言えなかった言葉をヒナが口にした。その言葉は温かくじんわりと心に染み渡ってくる。でも。 「今はやめてくれ。行きづらくなっちまう」 「生きてるときに言えなかったから」 「俺もだよ。愛してる」  大波がきて彼女を陸へと運びだした。  もうこれ以上は彼女の身によくないと悟った俺は、念力で波を操っていた。  俺は海の向こうへと進む。 「愛してる」とヒナの声が潮騒とともに繰り返されてやまない。  世界中の誰よりも大切な人から贈られるその言葉は、最高の贈りものだ。いや、生きてるうちはそのありがたさに気づかなかったかもしれない。けれど。 「それは生きてるやつに言ってやれ」  俺はゴーストヒーロー。不幸よりも笑顔を増やしたい。拳を突き上げ、彼女がいる浜とは逆のほうへ向かう。蝋燭(ろうそく)の炎のように小さくなる陽のほうへと。彼女の幸せを願って。
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