シロの初恋

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 幼い頃エリちゃんが教えてくれた場所に一緒に行くことが出来た。エリちゃんが可愛いジェスチャーを交えて話す公園や河原での出来事は、どんな御伽噺よりも僕を虜にした。シロみたいにエリちゃんとかけっこをする体力はさすがになかったけれど、エリちゃんが教えてくれた外の世界をこの目で見られただけで満足だ。  観覧車の中でしたファーストキス。僕はこのために今日まで生きてきたのだと思った。神様に心の底から感謝した。この幸せな時間がずっと続けばいいのに。そうは問屋が卸さなかった。  観覧車が地上に着いて、座席から立ち上がった瞬間、全身に痛みが走った。街を歩き回り医者に止められたお菓子を食べれば当然体調は悪くなる。悔しいけれど、自分の体調の事なんて自分が1番分かっている。そろそろタイムリミットだ。  我ながらうまくごまかせたと思う。遠方に住む祖父母や、僕の入院費を稼ぐために多忙ゆえなかなかお見舞いに来られない親の前では、元気に見えるように振る舞ってきた経験が生きた。  屋上の自動販売機で大きい方の水を買って、男子トイレに駆け込む。ここならエリちゃんに見られずに薬を飲める。決められた時間に飲む薬と、体調が悪化した時に飲む薬と、発作を抑える薬。250ミリリットルの水では飲みきれないほどの大量の薬を、500ミリリットルの水で流し込んでいく。  チョコレートの苦さとは全然違う、ただ苦いだけの薬。まずい薬。嫌な臭いがする粉薬。エリちゃんとのキスが薬の味で上書きされていくのがとても悲しかった。飲み終わった後、軽く口をゆすいでも口の中から薬の味が消えてくれない。 「こんなんじゃ、もうキスできないなあ」  やるせなさに天井を仰いだ。泣きたくない。泣きながら帰ってエリちゃんを心配させたくない。好きな子の前では最期までかっこいい男の子のフリをしたい。涙をこらえて、深呼吸を繰り返すうちに、薬が効いて体調が落ち着いてきた。  エリちゃんを家まで送り届けた後、タクシーを拾って病院に戻るくらいの余力はありそうだ。催事場を通り抜けて待ち合わせ場所であるエレベーターに向かう。催事場ではタイムリーにもチョコレートフェアをやっていた。  犬のロゴが描いてある金色の箱が、ふと目に入った。これが俗にいうパッケージ買いというものなのだろうか。病院の売店以外の実店舗での買い物は人生で初めてなのでよく分からないが、思わず衝動買いした。金色の犬のお守りをくれたエリちゃんへの最初で最後のプレゼント。  幸いにも発作を起こすことも体調不良を悟られることもなく、エリちゃんを家に送り届けることに成功した。「消える瞬間を人に見られると天国に行けない」なんて口から出まかせで、エリちゃんの前から自然に姿を消す。人生最大の嘘はどうにか突き通せた。  最後にエリちゃんが「大好き」と言ってくれた。嬉しかった。調子に乗ってもう1度キスしてしまった。ほとんど病院から出られない生涯だったけれど、その一言だけでお釣りがくるほど僕の人生は幸せなものだったと自信を持って言える。  エリちゃんの家の庭には小さなお墓があり花が供えてあった。僕は会ったことの無い彼に手を合わせる。 「ごめんなさい。君の名前を勝手に騙りました」  死者を冒涜した僕はもうすぐ地獄に堕ちるだろう。それでも後悔しない。最低な僕はもう1度深く頭を下げてエリちゃんの家を後にした。 (許すよ、だってエリちゃんが笑ってくれたから)  後ろから誰かの声がして振り返ったが、誰もいなかった。その声は祖父の声に少し似た渋い声だった。シロと僕の生年月日は同じだと昔エリちゃんが言っていた。犬の16歳は人間で言うと80歳くらいだっただろうか。昔聞きかじったそんな話をふと思い出す。全部僕の都合のいい自己正当化なのかもしれないけれど。  罰が当たったかのように、2つ目の角を曲がったところで眩暈がした。全身の力が抜けてその場で倒れた。神様がくれた束の間の幸せの時間が終わったようだ。薄れゆく意識の中、チョコレート味のキスを思い出す。  あの苦さも甘さも全部、僕の初恋そのものだった。
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