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死期が迫るのを感じる毎日の中、看護師さん同士の会話に「小早川エリ」の名前が出てきたのを耳にした。ペットロス症候群を患って、精神科に通院しているらしい。噂話の的になったのは彼女が名門女子校の制服を着ていたから、そして顔と足に目立つ傷があったからのようだ。とはいえ、昔に比べると多少はコンプライアンスも厳しくなっているので、味覚障害のことまでは人の聞こえるところで話してはいなかったので、実際にエリちゃんとパフェを食べるまで知らなかった。
ペットのシロを失った彼女の力になりたかった。僕に生きる希望をくれた彼女に恩返しがしたかった。何よりもう1度会いたかった。
彼女に会えるかもしれないと知った日から、僕の病状は気休め程度の回復の兆しを見せた。そして今日、起きた時の調子が今までで1番良かった。エリちゃんと宝探しごっこをして病院中を歩き回ったあの日よりも体が軽い。今日1日くらいなら、何をしてもそうそう疲れたり発作が起こったりしなさそうだ。自分の体のことは自分が1番良く分かっている。そして、こんなに調子が良くなることも二度となさそうだ。
病室の窓からちょうど制服姿のエリちゃんを見つけたのはもう運命だとしか思えない。たとえ死んでも構わないから病室を抜け出してエリちゃんに会いに行くことを決めた。お守りに何千回もお祈りしたから、きっと1日だけ神様が元気な体をくれたのだと思う。
彼女の前で「シロ」を名乗ったのは迂闊だったけれど、僕の本名を覚えていたとも思えないので仕方がない。彼女は僕をペットのシロの幽霊だと思い込んだ。エリちゃんは僕のことなんて忘れていた。当たり前だ。僕にとってはエリちゃんがすべてだったけれど、エリちゃんは学校に行けば友達がいて家に帰れば犬のシロがいるのだから。
悲しかったけれども、抱きついてくるエリちゃんの柔らかさと温もりの前に邪な気持ちが芽生えた。「最後に会ったのが何年も前の知り合い」として恋心を告げるより、「愛犬のシロの幽霊」に成りすました方が幸せな時間を過ごせると僕の中の悪魔がささやいた。
罪悪感がなかったわけじゃない。でも、最初で最期のチャンスだった。実際に、何千回も妄想したエリちゃんとのデートを実現している時、人生で1番幸せだった。何度「生きててよかった」なんて不謹慎な言葉を飲みこんだか分からない。エリちゃんが笑ってくれたことだけが救いだった。1つだけ神様に言い訳をするならばエリちゃんに笑顔でいてほしいという気持ちも確かに真実だった。
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