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ホエールウォッチング 前編
その日の彼女の夢はチーズまみれのパンケーキを口一杯に頬張ると言う欲望丸出しのものだった。
顔の筋肉という筋肉が緩みまくり、舌が濃厚なチーズの旨味とメープルの甘味を錯覚して涎を垂れ流し、口は何度も何度も丁寧に咀嚼した。
まさに夢のような幸福な時間だった。
それだけにスマホからの「いい加減にしろ!」と言わんばかりの5度目のスヌーズで起こされた時は絶望に表情が溶けてしまったのはいうまでもない。
何度周りを見渡してもパンケーキはない。
口もとを拭っても涎しかない。
窓の外に丸い月が浮かんでいるがもちろんパンケーキではない。
夢か・・・。
彼女は、ショックから立ち直れないままにベッドから起きて部屋を出る。
彼女が部屋から出てきたのを察知してランタンにオレンジ色の火が灯る。
彼女が歩くたびに木造の古い床が軋み、所々に設置されたランタンの火が燃え上がる。
若い彼女でも急と思う階段を下るとエプロン姿の母が仁王立ちして待ち構えていた。
「・・・今日何時に起きる予定だったっけ?」
「・・・3時です」
彼女は、身を小さくして答える。
「今は?」
「4時半です」
彼女は、さらに身を小さくする。
母は、小さく嘆息する。
「ホエールウォッチングに行くんじゃなかったの?やっぱり私が行こうか」
「・・・行きます!」
「じゃあ早く顔を洗って支度してきなさい!鯨いなくなっちゃうわよ!」
「はいっ!」
彼女は、慌てて洗面台に行き、顔を洗い、コンタクトレンズを入れ、長い黒髪を整える。
休日ならメイクしないでもいいが今日はそうもいかない。本格的には後でやるとして薄くファンデーションを付け、アイシャドウと口紅を塗る。
それだけで寝ぼけ眼のだらし無い中学生雰囲気が抜け、大人の清楚な女性が誕生する。
元々が切れ長の目の大和撫子のような顔なので薄くても化粧映えをしてくれるのが救いだ。
次に着替えだ、と思っていたら洗濯機の上に綺麗に畳まれた衣服が置かれていた。
昨日の夜、慌てないようにと自室に洋服ダンスの上に置いておいたものだ。
自分で用意した記憶なんてカケラもないから、母が気を利かせて呼んでくれたのだろう。
むすっとしながらも心配症なのだ。
感謝しつつ急いで着替える。
襟付きの白いシャツに黒いタイツ、同色のスラックスに薄手のブレザー、とてもウォッチングに行く格好ではないが今日は仕方ない。
歯をしっかり磨き、洗面台を出るとオレンジ色の保冷パックが彼女の手に収まる。
「お弁当だよ」
水筒にお茶を入れながら母は言う。
「朝食も入ってるからしっかり食べなよ」
「チーズのパンケーキ?」
思わず期待して聞いてしまう。
案の定、母は、怪訝な表情を浮かべる。
「おにぎりだよ。あんたの好きなチーズおにぎり。嬉しいだろう?」
いつもなら大喜びなのだが、あの夢を見た後だと、少しガッカリ感が出てしまうのは罪なのだろうか?
母、首を傾げつつもお茶の入った水筒を渡してくる。
彼女は、リュックにお弁当の入った保冷バッグと水筒を入れる。そして忘れ物がないか最終チェックする。
「何で行くんだい?」
「バイクです」
そう言うと母は、露骨に嫌な顔をする。
「また、そんなもんで。私の若い時は・・・」
「もうそんな時代じゃありません!」
彼女は、話しを遮る。
それでなくても時間がないのにこの話しが始まったら永遠に終わらない。
しかし、母は、むすっとした表情を浮かべたまま部屋を出ると小さい筒のようものを持ってきて彼女に渡す。
「使い方は分かるね」
それは折り畳み傘だった。
「子どもじゃないんだから」
憮然とした表情で嘆息しつつも折り畳み傘をリュックにしまう。
「学校にはそのまま行くのかい?」
「はいっ」
「今日が実習初日だろ?居眠りすんじゃないよ。あんたは一度寝たら地球が沈もうが起きないんだから」
「分かってます」
母の言い分に彼女は、不服げに唇を尖らせる。
そしてバイクの鍵を持つと家を出た。
霧がだいぶ薄まってきた。
山を削って作られた公道は悲しくもあるが、バイクが走る上ではこの上なく便利だ。250ccのビッグスクーターは、急な坂道でも馬力を落とすことなく猛牛のような唸り声を上げて登っていく。彼女が生まれる遥か昔はそれそ牛車を引いて山を幾つも渡っていたというのだから牛がバイクに変わっただけで人が思うほどの大きな変化はないのかもしれない。
もちろん大気汚染は話しは別だが・・・。
山の中腹まで来るとバイクを公道の恥に寄せてエンジンを止める。ヘルメットを外すと圧縮されていた髪が解放されて風に靡く。
ガードレールで区切られた公道の下は切り立った崖になっており、山々の緑が隅々まで見渡せる。
新緑が心地よく目に痛みを与える。
崖の下には、深い樹海が広がっており、溜まった濃霧が蛇の肌のように静かに蠢く。
彼女は、じっと樹海を、濃霧を見る。
黒い瞳がうっすらと金色に光る。
濃霧の中で青白い胡麻粒のようなものが法則性を持たずに動いているのが見える。
まるで金魚のようだ。
「間に合ったみたいですね」
彼女は、ほっと胸を撫で下ろす。
その瞬間、胃袋の封印が解かれ、豪快な音が鳴り響く。
彼女は、頬を真っ赤にしながら辺りを見回す。
そして誰もいないことに再びほっと旨を撫で下ろした。
リュックを下ろし、中から保冷パックを取り出す。そして保冷パックの中からさらに大きくジップロックを取り出す。
マトリョーシカみたいだな、と思わず笑う。
ジップロックを開けて出てきたのは彼女の顔くらいある大きなおにぎりだった。
「お母さん・・・」
自慢げに鼻息を漏らす母の姿が浮かぶ。
食べ盛りの男子中学生ではないのだから、もう少し可愛らしく盛り付けるとか出来ないだろうか?
そんな文句を胸中で漏らしながらおにぎりを食べる。
溶かしたチーズと一緒に和えられた甘いご飯、アクセントの醤油と大葉の風味が口の中に広がって大輪の花が開く。
母特製のチーズおにぎり。
幼い頃から食べてきたソウルフードは頭の中に溜まった不満を全て払拭してしまう。
彼女は、パクパクと気持ちよく咀嚼しながら崖の下の樹海を眺めた。
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