リベイク

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「明日で最終日ですね」 「…そうだな」 レシピを写す手を止めて、建はチラリと樫木を見た。樫木は頬杖をついて、眠たそうに本のページを捲っている。 長いと思っていた3週間はあっという間に過ぎていった。沢山失敗もしたし、注意もされたが、とても充実した日々だった。 それに、樫木との距離が以前より近くなったような気がして、建はくすぐったいような嬉しさを感じていた。 「明日、終わったらすみゑさんの所に行きませんか?」 本を捲っていた樫木が動きを止め顔を上げた。 「…別に、いいけど」 「やった!」 休業中も、樫木は建との練習が終わるといつも通り週2回のペースで施設に顔を出していた。 行く度に建の事を聞かれはしたが、いつもフィディングの練習が終わった後は、慣れない作業でぐったり疲れている様子だったので、「来れるかわからない」と曖昧に返事をしていたのだ。 一緒に行けば、間違いなく喜んでくれるだろう。 建は再びノートに視線を落とすと、レシピ写しを再開した。何となくその様子を見ながら、樫木は口を開いた。 「何かあった?」 「え?」 「いや…何となく」 建は驚いて顔を上げた。 殆ど勘に近かったが、樫木は建の様子がいつもとどこか違うように感じたのだ。 「…明後日、母さんと、相手の人と会うんです」 「あ…そうか…」 建は困ったように笑った。 「最初は不安でした…でも、俺、今は樫木さんに言われて、母さんなら信じられるって思ったんです。だから、大丈夫」 「…何かあったら、言えよ?」 思わず樫木は、そう口にしていた。 建の母親の事は、身近な人間では樫木しか知らない。自分が出来ることなどは大してないのだろうが、話を聞く事ぐらいはできる。 一人で抱えるには、大きすぎる気がした。 建は驚いたように目を見開いたが、「ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。 _______________________________________________ 翌日 最後の練習が終わり、食事を終えてから樫木と建はすみゑの入所する施設に向かった。 「こんにちはー!」 「あらぁ!建チャン久しぶり!元気だった?」 多目的スペースで面会したすみゑは、建の顔を見るなり歓声を上げた。建も久々のすみゑとの再会に嬉しそうだ。二人してハイタッチする様に樫木は思わず苦笑する。 「元気そうだな」 「この通り、元気、元気!」 変わり無いといえば変わり無いが、今日は明らかにいつも樫木が訪れる時より生き生きとしていた。 「どう?建チャン、お仕事は順調?」 「はい!今はお店がお休み中なので、樫木さんが家でパンの中身の作り方を教えてくれてるんですよ」 「まぁ本当!そう言えば、前に持ってきてくれたクリームパン、とっても美味しかったわ。優しいお味でね、ありがとう」 「わ!嬉しいです!」 「あ、そうだ」と建は持ってきたビニール袋を差し出した。 「これ、今日の練習で作った鹿の子パンに入れる甘納豆です。一緒にオヤツ食べませんか?」 「嬉しい!ありがとう。大介、お茶淹れてくれる?」 「へいへい」 「あっ、俺も手伝います」 建はすみゑの前にあるテーブルにビニール袋と荷物を置くと、樫木と共に多目的スペースの一角にある給湯室へと向かった。 「すみゑさん、元気そうで良かったですね!」 「最近来た中で、今日が一番元気だぞ」 「建に会いたがってたからな」と、ティーバッグの入った急須にポットからお湯を入れる。建はその隣で湯呑を用意していた。 「そうだったんですか!言ってくださいよ∼」 口を尖らせ拗ねる建を見て、樫木は眉を釣り上げただけで無言だった。 不満げな建を横目にお茶を入れると、さっさと給湯室を出ていく。 「あっ、待ってくださいよ~!」 「早く来い」 二人してすみゑの元に戻ると、すみゑは近くに居た職員さんと話をしていた。本当にお喋りが好きなようだ。 樫木が職員さんに向かってお辞儀をしたので、建も一緒に頭を下げた。 「ありがとう」 二人に向き合うと、すみゑはお礼を言った。 向かいの椅子に座ると、建がビニール袋から甘納豆を取り出し持ってきた紙皿に移す。 「美味しそうね!いただきます」 すみゑがひと粒甘納豆をつまみ、口に運んだ。 甘さ控えめに炊かれたそれはホックリしており、優しい甘さが口いっぱいに広がった。 口内に甘い余韻を残し、緑茶をすする。 「ああ美味しい…」 しみじみとしたすみゑの物言いに、見ている方もほっこりと和む。先程試食の時に少し味見したが、樫木と建も改めて甘納豆を口に入れた。 「懐かしいわぁ…」 「え?」 ふた粒、み粒と甘納豆を口にしながらすみゑは遠い昔を懐かしむように呟いた。 「亡くなった主人が好きでね、よく作ってたのよ」 「そうだったんですね…。じゃぁもしかして、この甘納豆のレシピって」 建の視線に、樫木は小さく頷いた。 「ばぁちゃんのレシピだ」 砂糖は控えめ、豆の形はしっかり残す。 樫木が祖母から伝えられたレシピは、パンの具材として形を変え、今も生きていた。 甘納豆を最終日に作ったのはたまたまだったが、これをすみゑに食べてもらう事が出来て良かったな、と建は思った。 「こんなに美味しくお豆が炊けるんだもの、建チャンなら大丈夫よ」 「あ、ありがとうございます!」 すみゑに『大丈夫』と言われると、本当に何でも大丈夫な気がしてくる。年の功とでも言うべきか、安心感が得られた。 でも恐らく、それだけではない。 豆が美味しく炊けただけで、全て大丈夫である根拠にはならない。他の誰かに同じことを言われたら、きっと大丈夫だとは思えないだろう。 「そうか…」 甘納豆を幸せそうに口に運ぶすみゑを見ていて、建は気が付いた。 (俺はすみゑさんの事を信じているから安心できるんだ) 何をもって信じるか… 樫木のおばあちゃんだから? 否、すみゑさんが好きだからだ。 理由なんて、それで充分じゃないか。 建の中で、何かがストン、と落ちた。 今なら自信を持って、自分の母親も信じられそうな気がする。きっと、「大丈夫」。 「建?」 「あっ、すみません」 考えに集中しすぎて、無言になっていたようだ。笑って誤魔化すと、樫木は小さく息を吐いた。 「疲れてるなら無理するなよ」 「無理してませんよ、今日だって俺が来たいって言ったんですから」 「あら?疲れてる?大丈夫?」 お茶を飲んでいたすみゑが心配そうに建を覗き込んだ。  「いつもね、大介に建チャンは来る?って聞いてたの。でも「来れるか分からない」って返事ばかりで」 「こういう事だったのね」と微笑んだ。 恨めしそうに樫木を見ていた建が、ハッとした表情に変わる。 樫木は、疲れているであろう建を気遣っていたのだ。それを知らずに、給湯室で樫木にあんな事を言ってしまった。申し訳無さが、胸にこみ上げる。 「すみません、気遣ってもらったのに…」 「いや…」 樫木は別に気にした様子は無かった。 そのやり取りを見ながら、すみゑが静かに口を開いた。 「大介は優しいんだけどね…優しさが分かりにくかったり、言葉が足りなかったりするから」 「勿体ないわぁ」と。 建はぶんぶんと音が鳴りそうな勢いで頭を振った。 「気付けなかった俺がいけないんです。一緒に仕事してて、樫木さんが優しいのは俺も知ってます!」 「おい、そんな大声で…」 樫木は片手で僅かに赤面した顔を覆った。 「ふふふ」とその様子を見ていたすみゑが笑う。 「ああ、甘い物食べたら眠たくなってきちゃったわ。お部屋までお願いしていいかしら?」 「はい!」 「俺が行くから、建は湯呑片付けといてくれ」 建は車椅子は押せるが、ベッドに移る介助はできない。湯呑を置きっぱなしにする訳にもいかないので、大人しく指示に従った。 「すみゑさん、また来ますね!」 「ええ、待ってるわ~!」  すみゑの姿が見えなくなるまで、建は大きく手を振り続けた。 ポーン エレベーターに乗り、個室のある階に移動してきた。昼過ぎは多目的スペースでの面会が多いため、個室のある階は比較的静かだった。 「今日は楽しかったわぁ…ありがとう」 「ああ」 個室に到着し、車椅子からベッドに移動する。 「よいしょ…っと、これでいいか?」 「うん、ありがとう」 「じゃぁまた」 「大介、」 帰ろうとした樫木を、すみゑが呼び止めた。 「建チャン、大介の事よく分かってくれてるじゃない…いい子よ。そういう人を、大事になさいね」 「…ああ」 交友関係があまり得意ではない樫木のことが、何歳になっても心配なのだろう。 店のリニューアルが落ち着いた頃に、また建を誘ってみようか。頭の片隅で考えながら、樫木は部屋を後にした。
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