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「えっ?!林さん、辞めちゃうんですか?!」
余りの驚きに、建の作業する手が止まった。
建が店に入って3ヵ月。
仕事にも慣れてきて、少しずつ任される事も増えてきた頃だった。
客足が落ち着いてきた夕方、翌日のパン生地を仕込みながら、滅多に仕事内容以外の事を話さない林が口を開いた。
「独立して自分の店を持つのが夢だったので…そろそろ頃合いかな、と思っていた時に建くんが入ってきてくれて。3ヶ月働いて、建くんもだいぶ手慣れてきた様子。これで僕も安心して店を抜けられます」
「そんな…」
当たり前のように、ずっと一緒に働くと思っていただけにショックが大きい。仕事を任される嬉しさより、不安の方が大きかった。
「ま、そういうことだ。建には今まで以上に働いて貰うから覚悟しとけよ」
厨房の奥から樫木の声がした。
翌日のカレーパンに入れるカレーを仕込んでいる。
「えっ、店長知ってたんですか!教えて下さいよ!」
「林が自分の口から伝えたかったそうだ。それに、俺が早く伝えた所で何か変わる訳じゃないだろう」
「確かにそうですけど…」
建がもごもごと呟くと、林は手を止め建を正面から見た。
「あと2週間です。その間に、僕が主に担当していた仕事を教えるので、頑張って覚えて下さい…建くんなら、大丈夫です」
林の励ましに、建は躊躇いがちに頷いた。
正直不安の方が大きかったが、林には沢山お世話になったし、自分も成長出来るチャンスかも知れない。
気を取り直すと、建は作業を再開した。
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「独立、かぁ…」
仕事後。
自室に戻り、布団の上に寝転んだ。
店の2階は部屋2つと洗面所付きのトイレのみ。ひと部屋はスタッフ用の更衣室兼物置きがあり、建は空いているもうひと部屋に布団を敷いて寝ている。風呂は近くの銭湯を使い、夕飯は店の残りのパンやスーパーの惣菜で済ませていた。
飛び込みで店に来た為、建自身の荷物は最低限だった。生活必需品の他は、着換えに、学校で使ったテキスト類のみ。大した娯楽的なものはない。仕事が忙しいのもあったが、休日や時間があれば、新しく出来たパン屋や遠方にあるパン屋を探しては、食べ歩きしていた。
もはや建にとってパン自体が娯楽といってよかった。
ぼんやり、天井を見つめながら今日の林の言葉を思い出していた。
(俺は、あのクリームパンを追いかけてパン職人になって、今店長の下で働けて…夢がかなったんだよな…)
ごろん、と寝返りを打つと、持ってきた専門学校生の時使っていたテキストが目に入る。本の中には、経営学の本もあった。
独立してパン屋を目指す人の為に、学校ではパンの技術に加え経営についても勉強したのだ。
テキストを手に取り、パラパラと捲る。
経営は苦手で、テストなど苦労した思い出がある。
(これから俺は、どうしたいんだろう…)
店で働くようになって、毎日がいっぱいいっぱいながらも充実しているし、楽しい。
パン職人として上を目指せばキリがないし、正直ゴールのある仕事ではない。毎日毎日、生地を捏ねては形成して焼く、同じような作業の繰り返し。その中でモチベーションを保つのは難しい事であった。
もっともっとパン職人としての腕を磨いた上で、最終的にどうしたいのか。林のように独立したいのか。
「…やめた」
パタン、とテキストを閉じ思考を中断した。
今はそれどころではない。明日から2週間は通常の仕事をしながら、引き継ぎ内容も覚えなくてはならない。
(今は、とにかく目の前にある仕事だ。)
建は自分に言い聞かせると。
目覚ましをセットし、布団を被った。
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