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―ギィ
「いらっしゃい」
「どーも、うちの青木がお世話になってます」
ディナータイムの遅がけ、伊東は久々に宮田の店を訪れた。宮田に挨拶すると、カウンター席に座る。他に客はテーブル席に2組居た。
ちょうどテーブル席の客に料理をサーブした青木が戻り、伊東にお冷とお絞りを出した。
「頑張ってるな」
「ありがとうございます」
「これ」
伊東が大きめの紙袋を差し出す。
中には青木が惣菜を詰めてきたタッパーがはいっていた。
あれから2日おきぐらいに、青木は惣菜を作っては伊東の家に届けていた。気を遣わせないようにと手渡しはせず、惣菜が入った紙袋を玄関のドアノブに引っ掛け、マンションの下に降りてきてからラインを入れていた。
初日以外は洗い物をしなくていいように、使い捨てのプラスチックパックに詰めている。
伊東も不在であったり、タイミングが合わず初日に惣菜が入っていたタッパーを返せずにいたのだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう…全部、美味かったよ」
「良かったです」
そう言うと、青木はキッチン奥にタッパーを置きに言った。宮田がカウンター越しに出したワインとナッツを受け取りながら、伊東が口を開いた。
「青木に何言ったんだ?」
「えっ」
「何のこと?」とキョトン、とする宮田に溜め息をついた。
「青木、ただでさえ忙しいのに、たまに惣菜作って持ってきてくれるんだ…何か言ったんだろう?」
「俺は別に何も……あ、前にタクさんがご飯ちゃんと食べてるかなぁって話はしたけど」
「宮田さんには何も言われていません。惣菜を作って持ってったのは俺の意思です」
戻ってきた青木が会話に入ってきた。
誤解が溶けて、宮田はホッとした表情になり調理を始めた。伊東が口を開きかけた時、テーブル席の客にチェックで呼ばれ、青木も席を離れる。
チラリとそちらを見て、徐ろに口を開いた。
「なあ…話したのか?」
「何を?」
ずっと、気になっていた。
宮田が伊東の過去を青木に話したかのかどうか。
青木の行動が、哀れみや同情からくるものならば、それは伊東にとって不必要なものだった。
様々な人からの度重なる哀れみや同情に、いつからか嫌悪感を抱くようになっていた。
しかし青木の行動に対しては嫌悪感がなく、曖昧なままずっと聞けずにいたのだ。
伊東の様子から、内容を察したのだろう。
宮田は真っ直ぐ伊東の目を見た。
「話したよ」
「…そうか」
「でも、青木くんのは、同情や哀れみじゃないと思う」
宮田は青木を見ていて、たまに胸が苦しくなることがあったが、何故かは分からなかった。しかし、青木と共に仕事をするようになって気付いた…無意識の内に、過去の自分と重ねて見ていたのだ。
要への想い、歯痒さに藻掻いていたあの頃の自分と。
だから薄々気付いていた。青木自身、まだ気付いていないであろう、青木の、伊東に対する気持ちに…。
「何でそう思うんだ?」
「何でかなぁ…勘?」
口調は冗談めいていたが、顔は笑ってはいなかった。
伊東は再び溜め息をつくと、チェックを終え客を見送った青木に聞いた。
「青木のそれは、同情?それとも哀れみ?」
「え…」
伊東のストレートな物言いに、一瞬青木は動きを止めた。暫くして意味を理解したのか、困ったように視線を逸す。
「…分かりません」
「そうか…」
「青木くん、料理お願い」
「はい」
気まずい雰囲気に、宮田は何とか青木を逃してやろうと出来上がった料理をサーブするよう声をかけた。とは言っても、閉店時間も近く他に客は居なかったため、伊東に出すものではあったが。
「トリッパです」
トリッパとは牛の第二の胃袋と言われるハチノスのトマト煮込みで、イタリアでは定番料理だ。
目の前で湯気をたてる熱々のそれはしっかりと煮込まれており、口にすればトマトの濃厚な旨味が広がり、ハチノスは口内で蕩けた。
料理をサーブするとすぐに、青木にテーブル清掃をするよう宮田は指示をした。オーダーストップまでまだ多少時間はあったが、この時間から新規の客が入ることはあまりない。
宮田もキッチンを片付けながら、無言で料理を口に運ぶ伊東に話しかけた。
「いきなり直球すぎない?」
「…迷惑だろ」
慣れない宮田の店でただでさえ疲れているのに、自分の時間を削って惣菜を作って持ってくるなど…彼にとっては何のメリットもないではないか。そんな事を、ずっと続けさせる訳にはいかない。
正直、過去を知っての行動だと分かっても、今までのような嫌悪感は感じなかった。
しかし、自分の事を気にしていては、青木が成長していくチャンスやタイミングを逃してしまうのではないか。伊東はそれを気にかけていた。
自分の事は、どうでもいい。
「迷惑、でしたか…」
「…!」
清掃を終えてキッチンに戻ってきた青木が、寂しげに笑った。先程の言葉を、そのまま受け取ってしまったようだ。伊東は頭を抱えた。
「そうじゃない…俺の事は気にしなくていい…青木に迷惑をかけたくない」
「俺は別に迷惑だなんて思ってません!」
「じゃぁどういうつもりなんだよ!」
普段は冷静な2人が、語気を荒げぶつかり合う。
気圧されて、宮田は固唾を飲んで見守る。
「分かりません…でも…同情でも、哀れみでもない…オーナー自身を放っておけないんです!」
「可哀そうに見えただけだろ?」
「違う!」
拳を握りしめキッパリと言い放った。
普段は見せない青木の激昂した姿に伊東が目を見開く。その目を捉え、真っ直ぐ見詰める青木の目は涙ぐんでいた。
「あなたは…自分を大事にしなさすぎです…気付くと、あなたの事を気にしていて…俺が大事にしなきゃって…」
「それは…」
その感情に、名を付けるのは躊躇われた。
その気持ちがそうとも限らない。
しかし、同情や哀れみではない事は確かだった。
「…悪かった」
暫くして、伊東がポツリと呟いた。
黙って見ていた宮田が、大きく息を吐き出す。
「仲直り、」
宮田が言ったが、暫くお互い無言で動く事が出来なかった。
いくらか間を置いて、伊東が静かに立ち上がり青木の前に歩み寄った。困ったように笑いながら片手を差し出す。
ふっと青木の拳から力が抜け、差し出された伊東の手を引き寄せた。予期せぬ力が加わり体制を崩した伊東は、すっぽりと青木の胸の中に収まっていた。
「…おい」
戸惑いながら声をかけると、青木は「約束して下さい」と呟いた。
「もっと自分を…大事にして下さい」
「……分かった」
震える背中に腕を回し、ポンポンと優しく叩くとようやく青木は伊東を開放した。
「良かった。もう、ピリピリした雰囲気で一時はどうなるかと思ったよ」
笑顔で言う宮田の方を向くと、「ご迷惑をかけてすみません」と青木は頭を下げた。
「もうオーダーストップの時間だし、表の札『close』にしてきて」
「ちょうど明日は定休日だし、仲直りの記念に今夜は飲もう!」と宮田に言われ、伊東と青木も顔を見合わせて微かに微笑んだ。
「あ、でも程々にして下さいよ、オーナー?」
「はいはい」
宮田はそんな二人のやり取りを微笑ましい気持ちで見ていた。
青木が自分の気持ちにはっきりと気付くのは時間の問題だ。
伊東の心の奥底にある百合への気持ちは変わらない。青木もそれに気付いている。
きっと、自分の気持ちを自覚したとて、今以上の関係を望んだりはしないだろう…
甘く苦い胸の苦しみを感じながら、宮田は二人の幸せを願わずには居られなかった。
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