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9.
「久しぶりだね!」
営業再開日前日。
樫木、建、青木はパンの仕込み。伊東、山田、千紗は新しく導入されるタブレットのレジの研修の為一同顔を揃えた。
建が嬉しそうに声を上げる。声にこそ出さなかったが、皆の表情は明るかった。
隣のテナントとの間にはまだ工事用の防音幕がかかっており、中を覗く事は出来ないが、内装工事の音が時折聞こえてきた。
「皆元気そうで良かった。明日から、予定通り一足先にパン屋のみ営業を再開する。また、宜しくお願いします」
伊東の言葉に、一同頷いた。
「さ、仕込みに入ろうか」
樫木が声をかけ、建、青木は厨房へと入っていった。
伊東は旧レジを取り払った台の上にタブレットを取り出し固定する。
千紗は学校などで使ってきた経験があるため、簡単な説明でメモを取らずとも直ぐに使いこなす事ができた。
以前から売上日報がタブレット入力だったため、山田さんも所々メモを取り、それを見ながら何とか出来そうだった。
「思いの外早く終わりそうだな」
伊東が二人の様子を見て言うと、タブレットを見ていた山田が千紗を見た。
「ねぇねぇ千紗ちゃん、私にも珈琲の事、ちょっと教えてくれないかしら?」
「お客さんから聞かれたら、ちゃんと答えられるようにしておきたいからさ」と伊東にも意図を伝えた。
「えっ!本当ですか!嬉しい!オーナー、いいですか?」
「勿論」
伊東は大きく頷いた。
珈琲に興味を持ってもらえて、千紗も嬉しそうだ。「ノート取ってきますね!」と更衣室に上がっていく。その後ろ姿を見ながら山田が呟いた。
「若い子達が頑張ってるの見てさ、私も何かできることないかなって」
「ありがとうございます」
久しぶりに顔を合わせた、皆が皆、士気が上がっているのをひしひしと感じていた。
いい雰囲気だ。伊東は素直に嬉しかった。
「そう言えば、何かオーナーも血色良くなってない?前より若く?健康的に見えるよ!」
「ありがとうございます」
山田にまじまじと見られ、伊東は思わず苦笑いした。
「お待たせしました!」
千紗がノートを持って降りてきたので、千紗と山田はレジ台の上にそれを広げ話始めた。
顔色が良くなったのだとしたら、それは間違いなく青木のお陰だと、伊東は厨房で作業する青木に目をやった。
宮田の店での一件から、大体週に2回程、仕事後青木が伊東の家に寄って夕飯を作り、食事を共にしていた。その時に作り置きの惣菜も何品か作っていってくれるため、以前より格段に食生活が良くなっていたのだ。
初めはわざわざ作りに来てもらうのを躊躇ったが、青木も独り暮らしのため、どのみち夕飯は作らねばならない。「一人分も二人分も同じことです」と押し切られてしまった。
前より自分を大事にするとは言ったが、伊東は具体的な方法が分からなかった。
宮田曰く、「素直に青木くんに甘えときなさい」との事だったので、結局今の状況に甘んじている。
薄っすら罪悪感を感じながらも、何気ない会話をしながらの食事に癒やされている自分がいた。
「オーナー、オーナー!」
「あっ、ああ、悪い…」
ぼおっと厨房内を見ながら考えていた伊東に
、千紗が声をかけた。カフェで使う豆の相談がしたいようだ。
「これなんですけど…」
「どれどれ」
パンが特徴別に分けられた表の下には、いくつかの珈琲豆の種類や味、値段がビッシリ書かれていた。
(休業中、遠山も色々調べて頑張ったんだな…)
そんな事を思いながら、千紗の話に耳を傾けた。
一方の厨房では。
フィディングの三分の一程の仕込みを任された建が、四苦八苦しながら作業していた。
当たり前だが、練習で作った時より量自体も多い。種類も沢山あるため、段取りが物を言う。
もたつく手元に、何度も口や手を出しそうになるのを樫木も耐えていた。ここで助けてしまっては、建の為にならない。
すると、どうだろう。
自分自身も作業しながら、青木が絶妙なタイミングで建をフォローしているのが見て取れた。
表立って目立った手助けはしていないが、ちょっとした洗い物であったり、自分の使う材料を出すついでに、建が次に使うであろう材料を一緒に出したりと、以前より周りが見えているような気がした。
これは宮田の店での接客の経験が生きているのだろう。樫木は青木の成長に、確かな手応えを感じていた。これで建が仕込みの要領を得れば、きっと今以上にパンの種類も出せるだろうし、質も上がる筈だ。
リニューアルしたのはは店だけではなかった、と樫木は思った。中身も、確実に変わっている。それも、いい意味で。
これは、伊東の手腕に他ならない。
「店長!確認お願いします」
建が出来上がった林檎のコンポートやキーマなど、数種類のフィディングを小皿に乗せて差し出した。頷いて手に取ると、それぞれ味見する。
「OK」
「っしゃぁ!」
小さくガッツポーズをすると皿を受け取り、次の仕込みに入ろうとした時、思い出したように青木を見た。
「洗い物と、あと材料出してくれてありがとう」
青木は建を見ると、小さく頷いた。
フォローに気が付いていたようだ。小さな事ではあるが、フォローされていた事に気付けば、次からは自分で気を付けるようになるだろう。大事な気付きだ、と樫木は作業しながら頷いた。
厨房も、予定より早めに仕込みが終わりそうだ。
樫木が表に目をやると、レジ台の所で千紗が伊東と山田を相手に熱心に話ているのが見えた。
恐らく珈琲についてだろう、前のめりになる千紗を見て樫木は苦笑いした。
(明日からの営業再開が楽しみだな)
久しく感じることが無かった、内側からじわりじわりと熱くなる感覚を思い出し、樫木は身震いした。
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