リベイク

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プロローグ パンが、大好きだった。 まだ小学生だった頃。 パン好きな母親に連れられて、たまたま入ったパン屋で購入し、食べたクリームパン。 あのパンを食べた時、食べ物で感動するという経験を初めてしたのだ。 ふわふわな生地はしっとりしていて、中のクリームは蕩けるよう。甘さ控えめなそれを頬張ればバニラビーンズの香りが口いっぱいに広がり、幸せに包まれるー… そう、俺はこのクリームパンに恋した。 何度食べても飽きがこない。 小遣いを握りしめ買いに走った。 塾の帰りに、部活の帰りに、立ち寄ってはクリームパンを食べた。 ある日、いつものように立ち寄りパンを買い口にした瞬間、愕然とした。 ー味が、変わった 何度も食べているせいか、些細な味の変化に敏感になっていたのかも知れない。 店の人に聞くと、パンの職人が変わったらしい。 ただただ、あの味が恋しかった。 個人情報だとかで、職人さんが辞めてから何処にいるかは教えてくれなかった。 パンに関わる仕事につけば、またあのパンに出会えるかも知れないー… 単純な思いから、俺はパン職人を目指すことにした。 それからパン職人になるべく専門学校に通い、時間があれば近くのパン屋や新店、休日は遠方のパン屋を食べ歩きした。 クリームパンだけでなく、様々なパンも食べた。 ある街のパン屋だった。 たまたま見付けたパン屋に入った途端、正面に鎮座するクリームパンに目が釘付けになった。 …あの、ビジュアルは! 急に、胸がドキドキしてきた。震える手でトレーとトングを持つと、ゆっくりクリームパンを乗せた。 他のパンに、目がいかない。 上の空で会計を済ますと、横にあったイートインスペースに座り、高鳴る鼓動を押さえながら包みを空ける。 ひと口、 ああ、この味だ…! 初恋の人に会えたような、何とも愛しい気持ち。 クリームパンはあっという間に無くなった。 「あのっ!」 食べ終わって真っ先に、レジに向かった。 「ここで修行させて下さい!」 「は、はい?今店長を呼びますので少々お待ちください」 「はいっ!」 暫くして、父親くらいの歳の人が奥から出てきた。真っ先に、思いを伝える。 一刻も早く…ここで働きたい。 「ここで修行させて下さい!」 勢い良く頭を下げる。 店長は少し困惑したような表情だ。 「君、まだ学生だよね?」 「はい!今専門学校に通っています!」 「…うーん」 「子どもの頃、あなたが作ったクリームパンに感動して、パン職人を目指しているんです!探して探して、ようやく再会できた…!あなたのお店で、修行させて下さい!」 「…分かった。でもまず学校をちゃんと卒業して基礎を学んできなさい。話はそれからだ」 「頑張ります!だから、お願いします!」 「卒業してからでなければ、認めない。あと、俺は雇われでオーナーは別にいるから。 君が学校を卒業して、まだうちに来る気があればオーナーに話をしてあげよう」 「…分かりました!待ってて下さい!」 _______________________________________ 「店長いますか!」 息を切らして駆け込んできたのは、1年前に修行させて欲しいと懇願してきた青年。 大きなスポーツバッグを肩からさげ、手には卒業証書と履歴書が握られている。 「約束です!ここで修行させて下さい!」 「落ち着いて」 苦笑いしながら、イートインスペースに促す。 履歴書は持っているくせに、アポイントなどは全く取っていない。常識が無いと言えばそれまでだが、店長は今時珍しいくらいの熱意を持った青年が嫌いではなかった。 「とりあえず、落ち着いて。オーナーに連絡するから」 「はい!」 「コーヒーで、いいかな?」 「あっ、ありがとうございます」 オーナー、という響きに急に緊張したように固くなる。 珈琲でも飲めば、少しは緊張が和らぐだろう。 イートインスペースに座った青年は落ち着き無さそうにキョロキョロと店内を見回していた。 「…で、どいつが修行したいって?」 店に着くやいなや、オーナーはニヤニヤしながら店長に話しかけた。明らかに、面白がっている。 そんな様子に呆れながら店長は伝えた。 「イートインスペースに座ってます」 ポン、と店長の肩を叩くとオーナーは青年の元へ向かった。 暫くして、 「おーい、店長、ちょっと」 「はい」 「明日からこいつ頼むわ」 「分かりました」 「名前は…」 「羽杉(はすぎ) (けん)です!」 オーナーが口を開こうとしたのと同時に、その青年は立ち上がり身を乗り出した。 「ハスキー犬…?ほんと、犬みたいなヤツだな」 必死に笑いを堪えるオーナーを尻目に、店長は建を正面から見据えた。 「店長の樫木(かしき)だ。まさか本当に来るとは思わなかった。熱意は認めてやるが、仕事は学校程甘くない。覚悟しておけ」 「はい!」 店長と建の間に軽く緊張が走る。 ようやく笑いを収めたオーナーが思い出したように声をかけた。 「…そういやお前、住む所は?」 「今から探してきます!」 「…」 「…」 「…店の2階に空き部屋があるから、そこ使え」 「いいんですか?!ありがとうございます!」 「朝早いから寝坊するなよ」 「はい!」 こうして住み込みでの職人修行が始まった。
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