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三年生の、わたしは。
瀬名さんに抱きしめられたあと、夏休みを迎えた。
夏休みの最中、わたしは一度だけ美術室に行った。
瀬名さんには黙っていたから、ほんとうにひとりきりだった。
暑くて、息をするのも苦しいほどむっとした空気を逃すために、部屋の窓という窓を開ける。
息を吐いて、美術室を一周見回した。
光が眩しい。夏の白さは目を瞑らせる。
まぶたの裏側で、眼球をぎゅっと上に向けてみた。先生が持ってきてくれたニゲラの花の色みたいな光は、見えなかった。
奥の部屋の扉を開けて、描きかけだったキャンバスを取り出してみた。
瀬名さんに聞いていたから、驚きはしなかった。
「先生、これ見たらびっくりするかな」
キャンバスのうえにあったのは、青。
筆の跡が生々しく残ったままの青が、キャンバスのなかで踊っている。ただそれだけの一枚で、時間もモチーフも何も描かれていない。
ただどうしようもない時間だけが積み重なっていた。
やっぱりわたしは霧のなかで、わたしにしか見えない先生と一緒に同じ一年を繰り返していたのだと、キャンバスのなかから叫ばれているみたいだった。
先生は今日みたいな暑い日、一年前の今日、亡くなった。
心不全で、あっという間に、誰もどうすることもできないままの先生は死んだ。
一年前のわたしは、瀬名さんと一緒にその話を聞いていたらしい。
わたしがあまりに淡々と頷いているから、瀬名さんは真夏なのに指先まで冷たくなったと言っていた。
その年の文化祭にはわたしが去年描いた絵をもう一度飾り、まだ不慣れなままだった瀬名さんのデッサンを何枚も貼りだしてやりすごしたそうだ。
瀬名さんは、ずっとわたしのそばにいてくれたのだ。
冬になって、無理しないで、と最初に言ってくれたのは瀬名さんだった。
そのころから放課後のわたしは、先生を見ていた。
キャンバスに青色を塗り続け、『先生がいた一年』をなぞっていて。
「でも、先生。わたし幸せだったんです」
変わることができない時間を、わたしのなかの先生と過ごしていた。
ずっとそこにいても、良かったのに。
なんて言ったら、きっと瀬名さんが泣いてしまうから、言わないけれど。
「小日向さん」
ふいに。
だから最初は、風の音かと思った。
「次は、何描くん?」
振り返ると、先生が立っていた。
わたしはまだ、霧のなかを歩いているのかな。
あんなにも瀬名さんの涙を浴びて、傷つけて、それでもまだ。
「三年やったら、もう最後の一枚やろ。描きや」
記憶のなかの先生を、声を、わたしのなかにある先生をすべてひっくり返しても、その言葉はなかった。
わたしは先生に一歩ずつ近づいていく。
いつもの距離を越えて、手が届きそうな近さまで来て、まぶたの影が見えるほどそばに立っても――先生は動かない。
「先生」
「どおしたん?」
「ごめんなさい。わたし先生のこと忘れられない」
「別にええよ」
「先生が好きだったことも、ごめんなさい」
先生はちょっとだけ困り顔を見せてから、曖昧に微笑んだ。
「小日向さんの肩にな、瀬名さんがぽんって顔乗せて写真撮ってたん、覚えてる?」
動物園に行ったときのことだ。
瀬名さんがスマホで撮った一枚は、あとでわたしももらったから覚えてる。
「ああいうのええなって、あの時ほんまに思ってん。僕が、きみらと同い年やったらどんなに良かったやろって」
先生。わたしもです。
もっと話したかった。
わたしの内側にあったきらきらと輝いたものとか。
先生の白くてきれいな手に触れられたかったとか。
わたしが描いているものを、描きながら救われていたものが何なのかを見つけてくれて嬉しかったこととか。
先生のことが、ずっと。ずっと大好きだったということを。
全部、全部言葉にできればよかったのに。と。
「先生、わたし。先生の絵を描いてもいいですか」
先生は頷いてくれた。
「小日向さんの光を、描いてや」
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