ニゲラの花の、光みたいな

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 今年の梅雨はどしゃぶりが続いたと思ったら、一瞬で夏に切り替わった。  月が変わったとたんに気温がぐんと上がり、むっとした空気の固まりが体じゅうにまとわりついてくる。  美術室のある旧校舎は風の通りはいいけれど、そのぶん冷房はほとんど効かないし、油絵具の匂いはますますきつくなっていた。  それでも、瀬名さんは来てくれていた。  雨のなか、画材店からの帰りに泣いていたときのような横顔はそのあと一度も見ていない。ハンカチを返してくれたときは、少し俯いていたけれど。 「なあ、先輩」 「……ん?」 「あかんの。描けへんなったかも」  期末試験が終わってすぐ――やっと部活の時間がたっぷりとれるタイミングで、瀬名さんは言った。  画版(カルトン)をたてかけたイーゼルを前にして身動きひとつできないみたいに。  実際、瀬名さんが文化祭に展示するメインの絵のモチーフを決めあぐねていることにわたしは気づいていた。  椅子を引きずって、瀬名さんの隣に座る。  こうして向き合うと、時間が春先に戻ったみたいだ。 「今日はデッサンにしておく?」 「今年の文化祭も、うち落書きばっかり貼りだすん嫌や」 「落書きじゃないよ。デッサンもちゃんとした作品だから。わたしのもたくさん出してるでしょ」 「先輩のは花とか鼻の高いおっさんの像やしええねん」  はな、にかかった言い方に、わたしは思わず噴き出した。  瀬名さんはわたしが去年描いた、アポロの胸像のことを言っているのだろう。  なにせ二人しかいない美術部の文化祭だ。メインの展示作を一枚飾るのがやっとで、あとはデッサンを貼りだして体裁を保っていた。 「うちのはマルかシカクばっかやん。何もおもろない」 「見てもいいい?」  ぷうっと頬を膨らませながら、瀬名さんは画版を差し出した。思っていたより重い。紐を解くと、去年から最近までのデッサンが何十枚と挟まれていた。 「いい感じにうまくなってる。これ並べて展示するだけでも、見ごたえあるよ」 「うちも先輩みたいなん、描きたい」 「油絵?」 「ちゃうよ。先輩が描くような絵。ちゃんと生きてるねん」  生きている。  瀬名さんの言葉が、ふいにわたしの胸を強く押した。あばら骨の奥で心臓が波打つのがわかった。 「なんか変なふうに言うてしもたかな」 「ううん、違う。ちょっとびっくりしただけ」  黙ったままだったわたしを、瀬名さんが心配そうに覗き込んでいた。  さっきまで絵が描けないと悩んでいたのは、彼女のほうなのに。 「瀬名さんは何か描きたいもの、ある?」 「えー…そんなん言われても、ちゃんと描けるもんなんてまだ……」 「そこは置いておいて。別にコンクールに出すわけじゃないんだしさ。わたしは描きたいなって思ったものを選んでる」 「そんなん、見られたら――」  瀬名さんがほんの少し俯き気味になったとき、なだらかな横顔に薄紫の陰が落ちていった。  まっすぐ通った鼻筋のシルエットと、アーモンドを並べたみたいな眼差し。その横顔を絵にすれば、きっと映えるに違いない。 「先輩は、なんか描きたいもんあるんですか」 「えっ」  思わず声に出してしまったかと焦った。 「前の油絵、仕上げへんねやったら、新しいもん描かなあかんでしょ」 「うん。ほんとはわたしも迷ってる。あれを仕上げるのが現実的だってわかってるけどさ」 「ほんなら先輩、もし、もしいやじゃなかったら」 「――小日向さん」  囁くようにわたしを読んだ声。  先生だ。先生は準備室のドアからちょこんと顔を出して、わたしを手招きしていた。 「先生、いつ来てたんですか」  わたしが立ち上がると、瀬名さんは目を丸くした後に下を向いた。 「ちょっと待っててね。先生なにか用事あるみたい」 「……先輩」 「すぐ戻るよ」  ごめんね、と瀬名さんの目の前で手を合わせる。  準備室のドアに隠れるように立つ先生を見ると、なぜかわたしまで声を抑えてしまった。 「立ち聞きしてたから、ですか」 「うん、聞いてしもうたわ。ほんまごめん。こういうのあかんよな」 「だったら最後まで隠れてから来たら良かったと思います」 「あ……ほんまやね。なんかふたりとも思いつめてたから、顧問としてなんか言わなって」 「わたしたちに?」 「なあ、動物園行っといでーな」  あまりに唐突で、予想外で、わたしはぽかんとして先生の顔を数秒見つめてしまった。 「動くもんを見てスケッチするん、描画の練習にいいやろ。ずっと美術室にこもってるとあかんようなるねん」 「先生だってずっとここにいるのに」 「僕はええよ。慣れとる」  暑くて、噴き出した汗がシャツの内側を流れていく。  わたしは一度だけ、ほんの数ミリだけ、その時だけ――心を揺らした。こころに浮かんだそのままを、先生に言ったのだ。 「先生も一緒なら、行きます」
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