ニゲラの花の、光みたいな

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 日の青空は、光っていた。  何色の絵の具だったら表現できるだろう、と家を出た瞬間から思ってしまうほどの。  とても暑い日で、地下鉄の出口に立っていた瀬名さんの影がいつもよりずいぶん濃い。制服じゃない瀬名さんを見るのは初めてだった。  毎日目にしていた夏服は、彼女にぴったりのサイズじゃなかったんだとその時知った。チュニックから伸びる手足は、思いがけず長くて、細かった。 「先輩がミントみたいな色着るん、なんか予想外でした。もっと紺とか青とか、パキッとしたイメージやし」 「こんな日に濃い色着たら、焦げる」  わたしのTシャツを見ただけで、瀬名さんははしゃいで笑っていた。  動物園の前で待ち合わせていた先生は、美術室にいるときと変わりないシャツとパンツスタイル。いつもと同じ。  ちょっとだけ残念で、でも安心した。  スケッチブックと鉛筆を持って園内をまわって、ちゃんと水分をとるようにと先生が言うたびに、わたしたちは自販機で炭酸飲料を買った。  ペットボトルのなかで沸きあがっては消えてゆく泡ごしに、わたしは先生を覗いた。  ゆらゆらと揺れる先生の姿。全てが光って曖昧だった。 ――ああ、わたしが描きたいもの、これなのかな。  きっと声をあげて先生を呼んでしまえば消えてしまう。 「先輩」  肩のうえに、ふいにかすかな重みを感じた。  瀬名さんが後ろからわたしの肩にあごを乗せて、腕を伸ばしている。 「あ、こっち見たらあかんって。ほら前!」  細いわりにしっかりと節の立った指が、スマホを握っている。  画面には笑顔の瀬名さんと、ぎこちないわたしが映っていた。 「記念写真!」 「別にいいけど、スケッチも忘れずにね」 「うちな、描きたいもんほんとはあるねん」  カシャ、カシャとスマホのシャッター音が鳴る。 「なに?」  スマホの画面の向こうに、先生が見えた。  先生もスケッチなんかそっちのけで、わたしたちを見て笑ってくれていた。先生の足元には足元に逃げ水が現れて、光っていた。 「先輩が教えてくれたら、うちも言う――かも」  とても暑くて、眩しくて、幸せな一日だった。  大好きな絵の具と紙の匂いがしなくても、心がワルツを奏でていた。  だから午後をすぎて、瀬名さんが気持ち悪いと座り込んだときも、大丈夫だと信じられた。  額に手をあてると熱いのに、瀬名さんの細くて長い指先は冷えている。  わたしがペットボトルの水を渡すと、こくこくとゆっくり飲んでくれた。先生とわたしは瀬名さんの体を支えて、タクシーに乗った。  ごめん、と呟く瀬名さんの背中をわたしは何度も撫でた。  優しそうなおばあさんに、先生は深々と頭を下げていて。  わたしも一緒に、謝って。  待ってもらっていたタクシーで、帰る。  先生が隣に座っていた。《その》日の青空は光っていた。  眩しいくらいに晴れていたのに。      動物園のある市の中心部を抜けて、タクシーがゆるやかな傾斜を昇り始める。わたしの家まであと十分程だろうというあたりだった。  突然、目の前が真っ白に光った。  間を置かずに、空が割れたかと思うほどの雷鳴が続く。夕立だ。タクシーのフロントガラスを大きな雨粒が打ち始める。  雷と雨と、冷たい風。変わるがわる車内に響く音。  なのに先生は、なにも聞こえていないみたいにまっすぐ前を向いている。  まるでここにいないひとのようで。  先生の冷たい手首を思い出して。  わたしは一人でここにいるのかと思ってしまって。 「……先生」  お願い、とわたしは祈った。このまま黙っていないで。声を出して。わたしの隣に先生はいるのだと証明してください、と。 「どしたん」  車が揺れて、先生の横顔がぶれて見える。でも声はすぐそばで聞こえる。 「なにか、話していて、ください」 「雷怖いの」  喉の奥が渇いてうまく話せなくて、わたしは頷くしかできなかった。 「すぐ去ってくよ」 「でも」 「小日向さんがなんか話したほうが、気ぃ(まぎ)れるんちゃうか」 「先生の話が、いい」  先生は深く息を吸って、はいて、それから胸元で両の手の指を組んだ。シートベルトの隙間でわずかに前屈みになってから――その仕草で、先生はいつもいる。言葉も距離も、何もかもを。 「僕はな、一番きれいなときを残したかってん」 「……え?」 「僕は人物画、描かへんいうたやろ。苦手やからって――あれ、嘘やねん」  
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