13人が本棚に入れています
本棚に追加
『H.misaki』
画材店で見た優しい絵の隅に描かれた、右あがりの綴り。
心臓が軋んだ。頭の外側がきゅっと熱くなって痛んだ。
先生の声色が、寂しそうだったからだ。
「あの店に置いてあったん、確かに僕が描いたやつでな。もうずいぶん前のや」
わたしが見た、どこかを見つめて微笑んでいる女のひとの絵は、やっぱり先生のものだった。ところどころ抜け落ちたオイルパステルの色彩を思い出す。
絵のなかで微笑んでいた、一番きれいなときの誰かの時間を、先生はいつ描いたのだろう。
「一番きれいなときを残したかったけど、無理やった」
「先生。あの絵のなかのひと、すごく美しかった」
柔らかい光に包まれた頬や、艶やかな波みたいな髪とか。派手な顔立ちではないのに、目を離せないような。
「そうや。美しいひとを、そのまま描いたんや」
ひと呼吸おいて、先生は続けた。
「でもな、泣きはってん。あのひと、最期に絶対自分のことは忘れてってお願いしはってな。きれいな顔も、お別れのときの顔も、全部忘れてくれって」
先生が『あのひと』と呼ぶ声に込められた愛しさが、もうその人はいないのだとわたしに教えている。
ふっくらした幸せな頬は、一番きれいなときで。
『あのひと』はそれをなくしながら、命を失う時間を過ごしていたのだろうか。どんなに想像しても、わたしにはわからない。
わたしはその時間にいた先生を知らないから。
なくしたものを、凪みたいな静かな声で話したことなんてなかったから。
「だから僕はもう人物画は描かへんし」
また雷が鳴って、わたしは思わず身を縮めた。
「学校の先生になろうって、決めたんや」
雨も風も止まずますます強くなって、車ごと荒波にさらわれたように揺れていた。
「学校って、三年でみんな入れ替わっていくやろ。僕だけここにおっても、みんなちゃんと忘れてくれる」
「……先生」
「僕は忘れへんって言うて、大事なひとを傷つけた罰やな。でもええねん。ずっと、誰からも忘れられていたいんよ」
先生は曖昧に柔らかく微笑んでいた、と思う。
わたしがよく知っている横顔がそこにあるはず。
雨粒が円状に砕けてゆく窓ガラスははっきり見えるのに、先生の輪郭がゆらめいている。
雨の音が、雷鳴が、風音がうるさくて、先生の声が聞こえない。
うるさい。わたしの心臓の音が、ありえないほどの速さで音をたてている。耳鳴りが続いて、全部がノイズに埋まる。うるさい。
――行かんといて。
うるさいよ。聞こえないよ。
――行かんといて、ねえ。
遠くから、聞こえてくる。行かないでと、柔らかな音で。
――行かんといて、先輩。
最初のコメントを投稿しよう!