ニゲラの花の、光みたいな

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 『H.misaki』    画材店で見た優しい絵の隅に描かれた、右あがりの綴り。  心臓が軋んだ。頭の外側がきゅっと熱くなって痛んだ。  先生の声色が、寂しそうだったからだ。 「あの店に置いてあったん、確かに僕が描いたやつでな。もうずいぶん前のや」  わたしが見た、どこかを見つめて微笑んでいる女のひとの絵は、やっぱり先生のものだった。ところどころ抜け落ちたオイルパステルの色彩を思い出す。  絵のなかで微笑んでいた、一番きれいなときの誰かの時間を、先生はいつ描いたのだろう。 「一番きれいなときを残したかったけど、無理やった」 「先生。あの絵のなかのひと、すごく美しかった」  柔らかい光に包まれた頬や、艶やかな波みたいな髪とか。派手な顔立ちではないのに、目を離せないような。 「そうや。美しいひとを、そのまま描いたんや」  ひと呼吸おいて、先生は続けた。 「でもな、泣きはってん。あのひと、最期に絶対自分のことは忘れてってお願いしはってな。きれいな顔も、お別れのときの顔も、全部忘れてくれって」  先生が『あのひと』と呼ぶ声に込められた愛しさが、もうその人はいないのだとわたしに教えている。  ふっくらした幸せな頬は、一番きれいなときで。  『あのひと』はそれをなくしながら、命を失う時間を過ごしていたのだろうか。どんなに想像しても、わたしにはわからない。  わたしはその時間にいた先生を知らないから。  なくしたものを、凪みたいな静かな声で話したことなんてなかったから。 「だから僕はもう人物画は描かへんし」  また雷が鳴って、わたしは思わず身を縮めた。 「学校の先生になろうって、決めたんや」  雨も風も止まずますます強くなって、車ごと荒波にさらわれたように揺れていた。 「学校って、三年でみんな入れ替わっていくやろ。僕だけここにおっても、みんなちゃんと忘れてくれる」 「……先生」 「僕は忘れへんって言うて、大事なひとを傷つけた罰やな。でもええねん。ずっと、誰からも忘れられていたいんよ」  先生は曖昧に柔らかく微笑んでいた、と思う。  わたしがよく知っている横顔がそこにあるはず。  雨粒が円状に砕けてゆく窓ガラスははっきり見えるのに、先生の輪郭がゆらめいている。  雨の音が、雷鳴が、風音がうるさくて、先生の声が聞こえない。  うるさい。わたしの心臓の音が、ありえないほどの速さで音をたてている。耳鳴りが続いて、全部がノイズに埋まる。うるさい。 ――行かんといて。  うるさいよ。聞こえないよ。   ――行かんといて、ねえ。  遠くから、聞こえてくる。行かないでと、柔らかな音で。 ――行かんといて、先輩。
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