ニゲラの花の、光みたいな

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*** 「先輩さんて、去年うちにみーちゃん送ってきてくれはった人やんね」  やけに遠くから途切れ途切れに聞こえてきたのは、年のいった女の人の声だった。 「うん、そう。おばあちゃん、氷もうちょっとある?」 「あるある。階下(した)から持ってきたげるわ。せやけどほんまにお医者さん呼ばんで大丈夫かいな。みーちゃんより体小さいし心配やわ」  とんとんとん、と木を踏む音と微かな振動が体に伝わってきて、目が覚めた。  薄いタオルケットの感触がする。  体が熱くて、重くて、右手を持ち上げるのすら億劫だった。まぶたがくっついている嫌な感じがして、無理やり目元まで手をやると、重みのある柔らかなものが顔の真横に落ちた。  頭上に木目が色濃く刻まれた板張りの天井があった。古いけどしっかりした建物だ。最初は歪んで見えていた木目がひとつにまとまった時、体が揺れた。  わたしの頭を乗せた枕の端に、長くて細い指先が見える。 「先輩!」  視界いっぱいに、瀬名さんの顔が広がった。  彼女はまた鼻と目を赤くしていて、いつもさらさらと整っている前髪に変なクセがついていた。 「みーちゃんって、瀬名さんのことだったんだ」 「先輩、大丈夫? 頭痛い? 気分悪うない?」  瀬名さんはたて続けに問いかけながら、わたしの額に冷たいものを乗せた。視線を上に向けると、青いしぼり袋が見える。子供のころに使っていた、古いタイプの氷嚢だった。 「頭、痛くはないけど……ちょっとぼーっとしてるね」 「お水とかスポドリも冷やしてるから、すぐ持ってきます」 「待って」  立ち上がろうとしていた瀬名さんのシャツの端を掴んだ。  瀬名さんはすとんとその場に腰をおろして、長身を折りたたむようにしてわたしの顔を覗き込む。 「ここ、瀬名さんのお家なんだよね」 「そおです。動物園からタクシーで。うち、先輩の住所知らんから」 「……どうして?」 「先輩、熱中症やったんです。去年のうちと一緒で――」 「違う、よね。体調崩したのは瀬名さんで、先生と一緒にお家まで送ってあげて」  ぐったりした瀬名さんの体が熱かったことを、覚えている。  帰り道で夕立にあって、雷鳴と豪雨のなか走るタクシーのなかでわたしは先生と話していた。  だから、わたしがにいるのはおかしい。 「先生は、おらへんよ」 「……え?」 「先輩、先生と一緒にうちを送ってきてくれたんは、去年なんよ。うちが一年のときで」 「違う、だってわたし、さっき先生と」 「先生は一年前に、死にはったんです」 「違う、よ。今日も一緒だったよ。瀬名さんとわたしと、先生で」  体を起こすと、視界がぐらりと回る。  重力に引っ張られたわたしの肩を、瀬名さんが抱きとめてくれた。わたしよりも細い腕は思っていたより力強くて、長い指先が皮膚の奥へ沈んできそうなほどだった。 「今日、うちと先輩はふたりで動物園に行っとったんです」  じゃあ、わたしは一体何を見ていたの。  誰と話していたの。  わたしを抱きしめている瀬名さんの背中ごしに見える世界が、だんだんクリアになってきた。  古い壁と畳の上に敷かれた清潔な布団。クーラーから聞こえてくる低い振動音。壁にかかっている制服。文化祭のモチーフを探していた瀬名さんが持っていた、角が少し潰れたスケッチブック。  なのに、先生の輪郭だけが滲んでいる。 「うち、ずっと先輩と一緒にいるって決めてん」 「どうして?」 「先生はもういいひんのに、先輩は一緒におったでしょ」 「だって、先生、いつも――」 「うち、先輩が教室におったときもこっそり覗きに行っててん」  瀬名さんの目からいくつも、大粒の涙がこぼれて落ちる。  あまりにまっすぐな感情が浴びせられて、わたしは思わず瀬名さんの頬に手を伸ばした。 「なんで先輩、教室では普通に過ごしてたのに、なんで。放課後だけ、先生と一緒におるん?」  涙に触れると、熱かった。  ひとの体温が指先に伝わってくる。 「一年間、先輩はずっと……いなくなった先生と一緒にいたんよ」 「どうして」 「それでもかまへんって思った、先輩が壊れてしまわへんかったらええって。せやけど一年して、また先生がいなくなる日が来たら先輩どこへ行ってしまうん?」  瀬名さんの瞳孔が大きくなって、揺れている。そのなかにわたしが映っている。ひどい顔だった。横になっていたせいか髪がぐちゃぐちゃだったし。  それに気づいたのか、瀬名さんの指がわたしの髪を梳いてくれた。  指の感触が、汗の匂いが、湿気を含んだ部屋の空気が。  ひとつひとつが現実の重みを持って、わたしを追い詰めてゆく。  美術室にいた時間も、確かにあったはずなのに、輪郭も記憶も全部ゆるんでしまう。 「わたし、先生と一緒にいた」 「うん。知ってる」 「たくさん話した、瀬名さんのこともたくさん。ずっと一緒にいたよ」 「うん。おったよ。先輩はずっと先生と一緒におってん。うちは一番そばで見てたんよ。でも」  瀬名さんが次にいう言葉は、わかってる。 「先生は、本当はいないんだよね」 「どこにも行かんといて、先輩……」  どこにも行く場所なんてないよ、瀬名さん。  どこかに行きたいわけでもない。  ただずっと、変わらずに過ごしたかっただけで。  わたしは、強く抱きしめられた。熱くて息苦しかった。  自分以外の、誰かの心臓の音が聞こえたのは――いつぶりだったろう。
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