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きみの光は不思議な色をしているね、と。
わたしの絵を覗きながら岬先生が呟いた。
そう。わたしの光はいつも青を含んでいる。
キャンバスの上を走らせていた油彩筆を止め先生を見ると、曖昧に微笑むような柔らかい横顔があった。
「ダメ、ですか」
「まさか。僕には見えへん色やから羨ましいんや。どないしたら見えるんやろなあて」
「簡単ですよ」
わたしはぎゅっと目を瞑って、まぶたの裏で眼球を上に向ける。すると暗闇が一瞬明るくなって、わたしにはその光が深い青に見えるのだ。
「先生もやってみて」
きょとんとした後、先生は眼鏡の奥の目を強く閉じた。
薄いまぶたの皮膚が微かに波打っている。銀の細いフレームの影が、かすかな紫を先生の目元に落としていた。
先生のまぶたには目を伏せ気味にした時だけ深い溝が見える。細い筆で一筋引かれた墨の線みたいで、初めて気づいたのは一年生の秋だった。
「あかん、やっぱり見えへんわ。目ぇ悪いからかな」
「たぶん関係ないと思います」
「ほな、おっさんやからかもしれん」
「先生そこまで〝おっさん〟なんですか」
「そおやで。ほんまに」
こんなどうでもいい会話を何十回もリピートしながら、わたしは高校三年になってしまった。
いつもなら先生はまた自分のスケッチブックに視線を落とすけれど、今日は少しだけ真面目な顔で話を続けた。
「小日向さんは進路どうするん」
担任も、クラスメイトたちも、親も、口をそろえて同じことを言う。
三年にあがってひと月たったばかりなのに――なんて思いながらも、わたしはもう決めていた。
「美大行くんやったら、専門の塾通ったほうがええで。絵が上手くても、あれはコツわかっとらんと受からんし」
「美大は行きません」
「そおなん? ちょっと意外やわ。小日向さん絵ぇ好きやし、大学もそっちやと思うてた。ほんなら部活してる場合やないんちゃう?」
先生がきょとんとしているのもわかる。
生徒全員がなんらかの部活か委員活動をしなければならない。そんな理不尽な校則も、三年生になると自由参加になる。
三年生になってもしっかり部活に参加するのは、夏に最後の試合や大会のある運動部か、ほとんど体育会系みたいな厳しい吹奏楽部なんかに入っている子たちばかりだ。
旧校舎の、みしみしと音のなる廊下の端の美術部なんてほとんどが幽霊部員で。まともに活動しているのはわたしと、後輩ひとりしかいない。
「先生、もう美術部おしまいにしたいんですか」
「ちゃうやん。大学受けるんやろ、勉強は大丈夫なん?」
「模試でも無理のないところです。授業もちゃんと受けてますし、わたし勉強嫌いじゃないから」
「なかなか言うねえ。せやけど三年は無理したあかんで」
こんな話はおしまいにしよう。
ため息をひとつついて、わたしは椅子の上で体をねじり、先生に向き合った。
「それより。今年も入部希望なかったんですか」
「見学は何人が来てくれてんけどね。やっぱり油の匂いがみんな嫌なんかなあ」
「慣れてないと無理ですね」
ゴールデンウィーク明けに入部届がないということは、美術部を希望する新入生がゼロという意味だ。
先生は少し残念そうだった。でもわたしは。
わたしはちょっとだけ安心している。
油絵に使うオイルの匂いが染みついた美術室に、これ以上の侵入者はいらない。いてほしくなかったのだ。
「まあ、小日向さんが三年になっても来るんやったら、今年いっぱいは瀬名さんも続けるんちゃうかな」
「……そうですね」
「来年誰も入ってこんかったら、ほんまに廃部やわ」
ふと、すりガラスの嵌った入口に影が浮かんだ。
「なんなん、先生と紬先輩ふたりして、またうちの悪口言っとたん?」
聞きなれた後輩の声は、ぎしぎしと重く軋む扉の音すらなぎはらう。
わたしの一年下の瀬名美雨は、孤高だった。
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