ニゲラの花の、光みたいな

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 一七十センチ近い長身で、すっと美しい角度を描く鼻筋を持つ彼女は目立つ。だけどそれ以上に目立ったのは、スタッカートがかった大阪弁の話し方だ。  京ことばで溢れかえるこの学校では、(おん)の運びが違う話し方をする人間は(あぶ)れてしまう。わたしも同じだった。 「またって、わたしも先生もそんなこと言ってないから」 「ほーんまかなぁ。嘘ついたら針千本やで」 「そもそも約束してないでしょ、わたしたち」  瀬名さんは唇をきゅっと尖らせて、わたしのすぐ近くに椅子とイーゼルを引っ張ってくる。イーゼルに立て掛けるのは画版(カルトン)と四つ切の画用紙だ。 「なあ紬先輩。先輩はいつまでここに来るん? 引退しーひんの」  同じことを尋ねられているのに、先生と後輩ではまるでワルツとマーチくらいに音の響きが違った。 「しない。卒業までいる……つもりだけど、最低でも文化祭までは」 「そっかあ。先輩がずっと居るんやったら、うちも来る」 「無理しなくていいよ」  瀬名さんの目が丸く開いて、潤みを増した。あ、ごめん、と思うスピードよりも早く目頭に涙が浮かんでいる。 「小日向さん、もうちょい(まる)う言うてあげな。あんたら仲良しさんなんやろ」  丸く、話す。わたしにはできない柔らかさを、先生は確かに持っている。 「瀬名さんもな。小日向先輩はいつでも心配してくれたはるんやで、たぶん」 「たぶんって、先生それは余計な一言」 「そやな。ごめんごめん。僕ちょっと職員室戻ろなあかんし、今日は最後に鍵だけ返しにきて」  先生は鉛筆とスケッチブックを小脇に抱えて椅子から立ち上がった。  わたしと、今にも泣きそうな瀬名さんのふたりきりの美術室。  あ。一年前の春と同じだ、と。  あの日のことを思い出しながら、わたしは瀬名さんの正面へ椅子を引きずり座った。 「ごめん。あの、ちゃんと話すけど、わたしの言い方がキツかったら教えて」  瀬名さんはぐすっと鼻を鳴らして頷いた。 「瀬名さん、本当に美術部で良かったの?」  一年前の春、新入生としてたった一人美術部に来た日も、瀬名さんは新しいスケッチブックを前に途方に暮れて鼻を赤くしていた。  どこに泣ける要素があるのだろうと首を傾げながら話しかけると、彼女はほとんど絵を描いたことがないという。漫画やイラストのほうが好きなのかと思うと、そうではなく。  瀬名さんは、線の引き方も鉛筆の削り方も知らなかった。  中学から美術部に入っていて、子供のころから『お絵描き』が身近だったわたしには衝撃だった。  どうして美術部を選んだの。  何度尋ねてみても、瀬名さんはひらりとはぐらかして答えない。  でも彼女は、わたしが教えた鉛筆の削り方も、練り消しの使い方もしっかり覚えてくれた。面白みのない真っ白な円柱のデッサンを何枚も重ねた。  そして、入部してからほとんど毎日美術室に顔を出し続けたのだ。 「先輩はうちがおもしろなさそうに見えるんですか。そんなら顔のせいです。いつもこんなやし、可愛げないって言われる」 「ううん。違うよ」 「そしたら、いつまでたっても上手(うま)くならへんから?」  違う、とはすぐに口に出せない自分がいた。  きっと瀬名さん本人もわかっている。一年たって、道具の使い方や描き方のコツは掴んでいるけど、彼女の絵はお世辞にも上手と言い難いままだった。 「別にそれはいいの。わたしね、瀬名さんは校則のせいで仕方なくここに入ったんだと思ってた。実際、幽霊部員いっぱいいるから」 「なんで。うち無理なんてしてへんし」  わたしの顔をまっすぐ見つめる瀬名さんが、長い指で目元をぬぐう。  それから。  深い、いつもよりもどこか色彩が濃くなったように感じる瞳孔が。 「うち、好きやから、来てるんです」  瀬名さんの眼差しを正面から浴びて、体の奥でガリゴリと氷が砕けるみたいな感覚がした。  わたし、を知っている。  わたしが、わたしのなかに生まれたに気づいた時と同じだったから。
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