ニゲラの花の、光みたいな

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 たぶん、思い出したくなかったからだと思う。  わたしが一年生のとき。  その年の秋からの記憶は、光るように鮮明なところがいくつかあって、他はすべて曖昧だった。  わたしが入部したとき、美術部には三年生の女生徒が二人しかいなかった。仲良し二人組らしき先輩は優しかった。彼女たちと部活で過ごしたのは夏休みまでの半年足らずだったが、最後まで親切で――不真面目だった。  そのせいか先輩たちがどんな顔だったのか、うるさかった声色すら、記憶に残っていない。  絵を描かない先輩たちがいなくなった夏休み明けの美術室で、わたしは先生と二人きりになった。  高校に入ってから一枚目の油絵を仕上げるため、その夏は毎日美術室にこもっていた。  先生は当たり前に、きちんとわたしと距離を取って。  静かになった美術室では、少し低くて柔らかい先生の声が近くて。 「小日向さんの絵、九月末までに間に合うやろか。文化祭のメインにしよか思ってるねん」 「今月ですか。ちょっと急げば、たぶん」 「使(つこ)うてるオイルは、リンシードやんな」  先生がいつもよりも数歩だけ、わたしのそばに来てくれた。美術部備品の古いオイル瓶を手にとって、先生は伏し目がちに考えごとをしていた。  薄いまぶたと、白い手。  指先はわたしと一緒で、ところどころ絵の具に染まっている。でも手の甲は滑らかで、貝殻から作られた白い絵の具を思わせた。  とても高価で、わたしは使ったことがない。触れたとたんに腕を掴まれて深い水底まで沈められそうな白。先生の手はそんな色をしていた。 「そうやなあ、表面乾燥だけやったら十日くらいで間に合うか」  はっとして、わたしは顔をあげた。  先生はわたしの、まだ未完成の絵を見て微笑んでる。 「きれいやな。このあと、何色の花になるん」  キャンバスのなかに咲いているのは、一輪の芍薬だった。  まだ花の色は塗り込んでいない。 「……白。白にしようと思います」 「そうか。小日向さんは光を描くの、上手やしなあ」 「光、ですか」 「そうやで。鉛筆のデッサンも、水彩も、見せてもろたんみんな光ってたよ。ええな」  絵を褒めてもらったのは、初めてじゃなかった。小学校のころからコンクールで何枚も賞状をもらった。色使いが、写実性が、構図が美しい。少しくらい自惚(うぬぼ)れてもいいくらいの言葉をいくつも耳にした。  だけど、その時までわたしは、気づいてなかったのだろう。  先生の言葉は的確に、わたしの望んだものを表していたのだ。  絵を描くのが得意だから、誰かに褒められるから、じゃなかった。  わたしが描きたいもの。わたしが絵を描く理由。  誰にも話したことがない、わたし自身わかっていなかったことが、胸の奥で音をたてて組みあがっていく。  数瞬してから、それがわたしの心臓の音だと知った。 「先生、わたし。ちゃんと描けてますか」 「あたりまえやん。小日向さんは基礎もしっかりできてるし、美術室(ここ)でのびのび描いてな。油絵は家ではできんやろ」  先生はいつもと変わらない。柔らかな波の形のような口調だった。 「この絵が出来上がったら、きちんと額にいれような。僕ん()にも余ってるんあるけど……やっぱり(あつら)えたほうがええかなぁ」 「何でもいいですよ」 「あかんで、小日向さん。自分の作ったもん、ちゃんと大事にしい」  先生はやっぱりわたしとの間に、三歩ぶんの距離をとっている。  白い手が触れるのは、キャンバスだけだ。  あの日から、わたしは時々強く目を瞑ることを覚えた。まぶたが痛むほどきつく、暗闇のなかに沈む。青い光が見えた。わたしが描いた白い花は、ほのかに青い影を帯びた。  出来上がった油彩画は、先生が選んでくれた額に飾られ、文化祭で主役を演じた。  ふいに答え合わせの時間がやって来たのは、冬休みが明けた寒い日の放課後だった。空に重い灰色の雲がかかっていて、五時すぎにはもう窓ガラスの向こうが暗かった。
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