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美術室の蛍光灯の下で、先生は準備室から持ってきた脚立を立てた。
埃と絵の具がこびりついた脚立は、いまにもネジが落ちて壊れそうで、わたしは先生の背中を見ながら息を呑む。
「先生、大丈夫ですか。この脚立、そうとう古いですよね。やっぱりわたし、下のほう支えてます」
「そんなにあかん感じ? そやな……ちょっとだけお願い」
わたしは壁際にかけよって、ギシギシと鳴く古い脚立を押さえた。
四段程度の高さでも、脚立の上段に乗った先生の頭は天井に近い。
先生が手を伸ばすのは、文化祭からずっと飾られたままだったわたしの絵だ。油絵は完成から数か月たって完全に乾く。秋と冬を越えてやっと、仕上げ用のニスが塗れるようになる。
額装の紐がうまく外れないのか、先生の体はゆらゆら揺れていた。
もし先生が倒れてきたら、わたし受け止められるかな。
なんてことを考えながら。
先生のズボンの丈が少し長くて、クラスメイトの男子みたいにかかとで裾を踏んでしまいそうなところに気づいてしまったりして。
もしもここにいる先生が、わたしと同い年だったらどんなことを話すだろう。もっと素直にわたしの内側にあるものを出せたかな。
先生。
話し方が違って、気遣いがうまくできなくて、教室のなかで溢れてしまったんです。わたし。
だから絵を描いていたんです。
たぶんそれは、名前を付けてしまえば、光です。
日が暮れて辺りが暗くなって迷子になってしまった子供が見つけた、ぼんやりとした灯が、それなのかもしれません。先生はどうしてそれに気づいてくれたんですか。
先生が、先生と呼ぶべきひとでなければ、わたしはもっと。
「――おっと」
頭上で先生の声がした。
顔をあげると先生の腕が、ぎゅっと額縁を抱きしめていた。
「危なかった。落としてもーたらどないしよ思たわ。ごめん、降りるまで脚立押さえててな」
はい、と言いながら脚立を持つわたしの前に、そろそろと先生が降りてくる。ゆったりした動きは、馬車から降りるお姫様みたいだった。
「小日向さんの絵、長いこと見てもらえるようにしなあかんね」
先生の指が、額縁を撫でている。
白くて滑らかで、光る手の先には間違いなく愛があった。
わたしの絵、に向けられていた愛しさ。
わたしではなく、わたしの描いたものに。
わたしはキャンバスに嫉妬していた。やっと、わかったのだ。あのキャンバスのように触れられたら良かったのに。わたしが先生に。先生がわたしに。でもそれは叶えてはいけないことだって、わかってる。
わかっているから、先生から顔を背けて唇をかんだ。
ガラス窓に映ったわたしの目は、黒々と深い色をしながら揺れていた。
わたしが、一年生だったとき。
わたしのなかに生まれたものに気づいた時の、顔。
瀬名さんはこの顔と同じ眼差しを見せた。
わたしと同じように、瀬名さんも――先生が好きなのかもしれない。
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