ニゲラの花の、光みたいな

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 五月の終わりの週も半ばが過ぎて、雨の日が増えてきている。  教室を出て、雨粒が流れるガラス窓を見ながら美術室に向かう。思っていたよりも雨足が強い。目に映る光景の何もかもが溶けてマーブル模様を描いていた。  わたしみたいだ。正確には、わたしの心の奥の色。  瀬名さんが、先生のことを好きになった、かもしれない。  もちろんそんなこと、問いただす勇気なんて、わたしにはなかった。自分勝手な想像と予測で、わたしは瀬名さんと目を合わせづらくなっていた。  きっと瀬名さんも何かに気づいている、かもしれない。  かもしれないばかりに囲まれている放課後は、少し息苦しい。でも。  わたしも瀬名さんも、放課後になって訪れる場所は同じで。わたしたちはどちらも真面目な美術部員だった。  今日も美術室の扉を開けたときに、瀬名さんの姿を探して――まだ見当たらないことにわずかにほっとしてしまう。  毎日感じてしまう小さな罪悪感だったが、今日はふいにかき消えた。  教室に入ったとたん、湿度が高い空気のなかに甘い匂いが漂っていたから。  目に飛び込んできたのは、教室の真ん中に飾られた花束だった。 「この花、先生が持ってこられたんですか」  ガラスの花瓶に、濃い青色の花を中心につくられた花束が生けられている。外が晴れていたら、きっともう少し鮮やかに感じだったろう。  花瓶のうえで、桜がふたつ重なったような八重の形の花弁が、両手に抱えられるほどたくさん咲いている。  花弁を包む糸状の葉がかすかに揺れてて、まるで水中に沈められているみたいに見えた。 「きれいやろ。昨日見つけてん」 「わたし、この花初めて見るかも……」 「そうなん? ドライフラワーにもよく使われるんやって。ニゲラっていう花でな」  先生の指先が、花のひとつにそっと触れる。くすんだ青色が、白い甲に影を落とした。 「()がちゃんと差してたら、もっと濃い青やねんけど。この青、小日向さんの描く光に似てるなぁ(おも)うてん」  わたしも花瓶に顔を近づけて、ニゲラの花を間近で見つめた。  たしかにわたしの見えている青に近い。先生はわたしの色彩を覚えて、花を見つけてくれたのだろうか。 「今年も花、描くん?」 「わたし?」  先生が頷いた。  去年の文化祭に出した芍薬の絵は、一輪を大きく描いたものだった。今年はすこしキャンバスの号数をあげて、花束を描くのもいいかもしれない。けど、すぐには決められなかった。 「まだ……決めてません」 「来週から六月やろ。そろそろ文化祭に向けて描くもん決めたほうがええね」 「そうですね。期末もあるし、夏休みどれくらい来れるかもわからないし」 「小日向さんは、今描いてるん仕上げて、文化祭に出してもええねんで」  美術室の奥から続いている小部屋には、描きかけの油絵が置いてある。  一番描きやすい五十センチほどの大きさのキャンバスに、春先の川面をモチーフにしていた。川のきらめきと、水面を流れる草花はもうほとんど出来上がっている。  でも、先生は毎日見ているから、きっとバレてるはずだ。  描きあげられないの絵のうえで、わたしは迷っていた。 「先生は、もし」 「なに?」 「これが最後の一枚、って作品をつくるなら、何を描かれますか」 「最後? うーん、なんかそういうふうに考えたことあったかなあ。そっか、小日向さん三年やもんな」  わたしは頷いた。今から描くにしろ、描いている最中のものを仕上げるにしろ――油絵は時間がかかる。高校生活で最後の作品になるのは、今からわかっていた。 「自分で決めなきゃ、とはわかってるんですけど」 「そやなあ。でもやっぱり好きなもんを、描きたいなあって思うもんを選んだほうがええよ」 「先生だったらそうする?」  指を組んで、先生はうーんと唸ってから頷いた。  いつもなにかに迷うとき、先生はそういう仕草を見せるのに。  僕だったらとか、先生がわたしと同じ年だったときのこととか、どんな絵を描いてきたとか、何も教えてくれない。  また曖昧な笑みだけが、答えだった。 「先生は」  好きなもの。描きたいもの――なんて言われたら。  わたしが描きたいものはひとつしかないのに。
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