ニゲラの花の、光みたいな

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「先生は人物画、描かないんですか」  一年生のころからずっと、わたしは先生の描くデッサンや水彩画をこっそりと覗いていた。  わたしや瀬名さんと一緒に基礎のモチーフを描く時以外だと、先生は花をよく選んでいた。時折パステルや水彩絵の具で淡く色付けられていた。  先生の笑うところみたいに、柔らかい光が紙から浮かび上がっていて。  わたしには描けない光だった。  もしも願いが叶うとしたら、わたしはあの光で、わたしを描いてほしかった。でも先生の描いた人物画は一枚もない。簡単なスケッチですら、ない。 「僕はねえ、描かないねえ」  どこかのんきな、歌うような音の運びで先生は言った。 「人物画、苦手やねん」 「やっぱり難しいですか」 「そやね、物や花に比べて情報量も多いし、その人のなかにある時間とか感情とか、そういうもんも混ざってしまうからなあ」  わたしが描くとしたら、わたしが描きたいのは先生です。  先生を描いても、いいですか。と。言えれば良かった。わかっていたけれど、言えなかった。 「小日向さん、でもな」  俯いているわたしを見て、先生は少しだけ誤解したみたいだ。 「描きたかったら、ええで。誰か描いてみたいん?」 「えっ……」 「大学やったらテーマに合わせてモデルさん探すんやけど、最初の一枚やったら、よう一緒におる人のほうがいいかもな」  最後の一枚で、最初の一枚。  時間も、感情も、閉じ込めてしまう一枚を、わたしは……。 「瀬名さんと一緒に、考えてみい」 「わたしが、描くものをですか」 「瀬名さんも作品づくり、本格的に考えなあかんのは一緒やからね」  瀬名さんが美術室にやってくる時間は、少しずつ遅くなっていた。  五月になったばかりに言ったわたしの言葉のせい、かもしれない。  瀬名さんがわたしのこころに気づいたのかもしれない。  少しずつ。ゆっくりと。変わらないと思っていた、放課後の時間が変質してしまった気がして、苦しい。でもわたしは卑怯で、そんなわたしを自分のなかに押し込んで毎日過ごしている。 「なあ、瀬名さんて、画材店行ったことないんちゃう?」 「そうですね。道具はほとんど美術部の備品だし、スケッチブックとかネットで頼めますから」 「便利やなあ。でもま、ずらっと絵の具やら道具が並んでるん見るのも刺激になるで」  確かに画材店には美術室とは別の、大量の紙や絵の具の匂いがある。  きっとわたしの制服にも、先生にも、似た匂いが染みついていると思う。どこか安心するような、懐かしい匂いを吸い込むと、無性に絵が描きたくなってしまう。 「そやし、瀬名さんと一緒にいっぺん行ってみるん、ええと思うわ。西町の画材屋さん知ってるやろ」 「はい。時々、行きます」 「昔からあってなあ、店員さんもしっかりサポートしてくれはるし。帰りに回り道してみたらどうやろ」 「……そう、ですね」  瀬名さんは、わたしが誘っても来てくれるかな。  先輩の言うことだから、みたいにはしてほしくなかった。  でもこのまま、時間がズレてしまったように過ごすのも嫌で。 「こんにちは」  と。四時をすぎて扉を開けた瀬名さんに、わたしは何も言えなくて。  結局、週が変わって六月になってやっと、わたしは瀬尾さんを誘うことができた。
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