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わたしと瀬名さんが、一緒に画材店に行ったのは六月に入って少したってからの、雨の日だった。
西町は学校の前にあるバス停で三つほど先だ。歩いても行けるけれど、放課後だったし、なにより雨が止む様子がなかった。
バスで隣同士に座ったとき、わたしは瀬名さんの横顔をそっと覗いた。
美容室に行ったばかりみたいな、きちんと揃った前髪が落ちて瀬名さんの目元を隠している。
「先輩?」
瀬名さんがわたしの視線に気づいたのか、長い指で前髪を耳にかける。
「バス、次だから」
「はい。てかうちのこと、寝てた思うてたでしょ」
「思ってないよ」
「うそー。黙ってじいっと見てたやん」
スタッカートな話し方は相変わらずで、わたしが一緒に画材店に行こうと誘ったときも瀬名さんは嬉しそうに笑っていた。
そんなふうに笑うなんて、予想外で。
わたしは瀬名さんのからりとした明るさをきちんと吞み込めないまま、バスが西町に着くまでビニール傘をつたう水滴を見ていた。
無理しないでいいよ、と言ったのはわたしのほうだったのに。
五月のあの日からどうしても、わたしは瀬名さんをまっすぐ受け止められずにいた。
「なあ、先輩。聞いてる? うちの声聞こえてへん?」
「え、あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「次やんね、西町。うち、ボタン押してええ?」
「わたしに聞かなくていいのに」
子供みたいな言葉に、思わず笑ってしまう。
宣言どおり、瀬名さんはバス内の電光掲示板が変わったとたん、降車ボタンを意気揚々と押していた。
バスに乗る人たちは、わずかだった。杖を握りしめて前屈み気味に座る老人。眠った子供を抱えた母親。濡れた靴を気にしている背広の男の人。みんな、どこか疲れたように押し黙っていて、雨音がやけに大きく響いていた。
揺れながら減速したバスのなかで、瀬名さんの声は、ぱちんと耳元でシャボン玉が弾けたように聞こえる。
「こっちやんねー、先輩」
「うん」
「足元気ぃ付けてくださいね。先輩ぼおっとしてるから」
「うそ、別にそんなじゃないけど」
バスを降りると、スマホを片手に、瀬名さんが先に早足で歩き出した。画材店を目指して地図アプリの矢印に目を落とす姿は、小さな子供みたいにはしゃいでいる。
わたしは何度か行ったことがあるから、のんびり瀬名さんについていくことにした。
雨の匂いがする。美術室以外の匂いを、こんなに強く感じたのはいつぶりだろう。深呼吸してから、小さくなった瀬名さんの背中を追いかけた。
「ほんっまにいっぱいあるんですねえ、色」
画材店についたとたん、瀬名さんは目を見開いて絵の具棚の間を歩いていた。わたしも子供のころ、初めて大型店に連れていってもらったとき、そうだった。
「ここは油彩用、油絵具の棚。裏側が水彩用だよ」
「なあ、うちが使うんやったらどれがいいかなあ。確かにここ来たら、なんか気分あがるわ」
「……ほんとは、描きたいモチーフとか、表現したい方法とかで決めるのがいいんだけど」
わたしは棚を見回して、パステルの棚の前で止まった。
「瀬名さんはまだスケッチやデッサンが多いでしょ」
「うん。いっぱい描いてる」
「油絵はさすがに時間がかかりすぎるし、ちょっと面倒なところも多いからおすすめできなくて……それでもいい?」
「いい、だって先輩の見てても絶対ムリーって思うもん」
「だったら、色を付けて仕上げるなら、パステルがいいかもしれない。濃淡も出しやすいし、指先で塗ったりぼかしたりできるから」
試し塗り用のパステル数本と画用紙が、棚の前に置かれている。
瀬名さんは早速いくつか手にとって、紙の上に色を置き、指でこすっていた。
「なんかこれ、アイシャドウみたい」
「あ。確かに同じかも。粉を塗って色を付けるから」
「いいなあ。うちもこれやったら、描けるかなあ」
「ワンセット、買ってみる?」
と、言うと瀬名さんはうーんと考えだした。箱に貼られた値札をそっと見て、悩んでいる感じだ。スケッチブックや鉛筆と違って、絵の具はどうしても高くなってしまう。
まして、初めて画材をひと揃い買うんだったら悩んでも仕方ない。
「瀬名さん。先生が部費使ってもいいって言ってたよ」
「……先生が。いつ?」
「この前。一緒に画材店行ってきたらって言われたとき」
「そっか」
瀬名さんはパステルの箱を、棚に戻した。
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