ニゲラの花の、光みたいな

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「今度にしよっかな。あと、絵の具の名前も覚えたし」  どうしたの、とわたしが声をかけるより先に瀬名さんはすっと立ち上がった。まっすぐな前髪の下で、人懐っこい笑みを作って見せて。 「うち、あっちのスケッチブックのほうも見てくる」  わたしに背中を向ける。  どうして、ねえ。先生ってわたしが言ったから?  ほんの一瞬だけ瀬名さんの瞳の奥が潤んで揺れたのを、わたしは感じてしまった。それから、揺れた気持ちを隠すように微笑(わら)っていたことも。 「瀬名さん」 「先輩も一緒に見るー?」 「待って、どうしたの? なにか、いま」  あら、とかけられた声に、わたしと瀬名さんの言葉は遮られた。 「桑南(そうなん)高校の制服やねえ。いや、久しぶりに見たわ。美術部さん?」  わたしも瀬名さんも足をとめ、声をかけてきた人を同時に見つめた。  画材店のエプロンをつけた六十代くらいの女の人は、目を細めてにこにこしていた。名札には小さく店長と記されている。  わたしはいつもの癖で指先を見てしまう。少しだけ荒れているのは、絵を描く人の特徴だから。 「はい。美術部です」 「懐かしいなあ。今でも岬くん、先生してはるん? 岬くんにはようしてもらっててん。生徒さんやったころから来てくれてはってな」 「先生が」 「そうよお。桑南の生徒さんやったら割引するし、わからんことあったらなんでも聞いてな」 「ありがとうございます」  お辞儀をしたとき、ぐっと体が傾いた。  驚いて顔をあげると、瀬名さんがわたしの腕を引っ張っていた。 「先輩、行こ」 「えっ、ほんとにどうしたの? 瀬名さん、なんかさっきからおかしい」 「ええです、うちおかしいていいから。先輩、行こうよ」  親切に声をかけてくれた店長もびっくりして、じゃあ、と愛想笑いをしながら別の棚のほうへ行ってしまった。 「瀬名さん、今のはダメだよ。失礼だったと思うよ」 「わかってます」  それでも瀬名さんはわたしの腕を離さず、どんどん出口のほうに向かっていく。 「スケッチブックも見るんじゃなかったの? ねえ、急に、どうして」 「だって、ここ」  と言ったまま瀬名さんは黙った。  狭い通路を二人で駆け抜けようとしたせいで、わたしは並べてあった画版を倒してしまった。 「待って、ちゃんと元に戻さないと」  膝を折って倒れた画版を拾い、埃をはらう。  幸いなことに傷はついていない。一枚ずつ元の棚にしまっていたとき、わたしは気づいた。  棚の間の壁に、何枚かのデッサンや絵が飾ってある。  古びた紙の匂いがした。石膏像やリンゴや空き瓶といった静物画の奥に、一枚だけシンプルな、額装がされている絵があった。  オイルパステルで描かれた、女の人。  斜めから見た優しい眼差しの彼女は、柔らかい光に包まれていて。  わたしは、この絵の光を知っていた。棚の奥へと身を乗り出して、サインを覗きこむと――アルファベットが並んでいる。 『H.misaki』 「ねえ、先生の名前がある」  振り返ると、瀬名さんが俯いていた。  ねえ、帰ろうと。ただそれだけ言いながら、わたしの袖を強く握って。  また、泣いていた。  何を尋ねてみても、瀬名さんは黙ったまま頭を横に振るだけだった。  鼻先を赤くして、瞳の端に浮かんだ涙の玉を手でぬぐって。わたしがハンカチを渡すと、ようやく声を出してくれた。 「ちゃんと(あろ)うて返します」 「別にいいよ、気にしなくて」 「あかん、だってめっちゃ汚してもうたもん」 「瀬名さん、ごめんね」 「先輩、うちがなんで泣いてるか、知らんでしょ」 「……ごめん」 「ううん。ええんです。忘れてください。今日のこと、全部忘れて、先輩」 「そうしたほうが、いい?」 「うち、明日からちゃんとするから。いつもみたいに笑うし、先輩もそうあってほしいねん」  ビニール傘を雨が打つ音に包まれながら、わたしと瀬名さんはバス停に並んだ。
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