「かわいい、赤ちゃん」

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 窓の外では大雨が降り始めていた。  空を覆う分厚い雲に光が遮られ、夕刻を前にして辺りは既に薄暗い。どんよりとした湿り気のある空気は、僕が抱いている不安をそのままに表しているようでもあった。  正直なところ、中学の頃の文化祭に関する出来事は何一つ思い出したくはない。  けれど、事の始まりがいつだったかを考えればあの文化祭であった事には間違いない。  だから気は進まないけれど、僕が覚えている限りをここに記しておくことにする。    僕の通っていた公立中学校の文化祭では、クラスごとに壇上で出し物をする、というプログラムが組まれていた。  出し物の演目はそれぞれのクラスで話し合って決めることになっていた。適当な合唱や、有志のダンスなんかでお茶を濁すのがお決まりのパターンだ。  思春期の中学生にとってはあまり積極的に楽しむイベントではないという事である。やっている内にモチベーションが加熱していく、ということも珍しい話ではないけれど。  その演目を決めるホームルームの直前、僕は何だか嫌な予感がしていた。教室の後ろにかたまった席を陣取っている堂前達のグループが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていたからだ。  どうせ良からぬ事を考えているのだろう、と僕は思った。その予感は見事に的中した。 「演劇がいいと思いまーす。溝呂木と藤山の二人芝居で。俺、脚本書きますよ」  文化祭委員が進行を行う学級会で、堂前は手をあげてそう発言した。教室の至る所からクスクスと忍び笑う声が聞こえてくる。  突然名前を呼ばれた藤山は、訳も分からない、といった様子で「えっ、えっ」と狼狽しながら丸い身体を揺すらせていた。  僕は頭を抱えた。  最悪だ。こいつら、全校生徒の目の前で僕と藤山に恥をかかせようとしている。 「ほう、演劇か。いいじゃないか。しかし、主役はその二人でいいのか? 配役を決めるのは題目が決まってからでもいいと思うが」  口を挟んできたのは、クラス担任の古賀という教師だった。若いスポーツマン風の男性教師で、僕はこいつが嫌いだった。 「いや、先生。地味な二人がやりたがってるんですよ。応援してやるべきじゃないですか。俺たち、全力でサポートしますよ。なあ、みんな!」  堂前の呼びかけに賛同する声が教室の各所から次々と上がった。きっと、初めからこうなるように申し合わせていたのだ。  発言力の強い堂前達のグループに、わざわざ逆らうような人間はいない。気づけば、戸惑っているのは僕と藤山の二人だけだった。 「そうか。じゃあ一致団結して、みんなで溝呂木と藤山を助けてやるんだぞ。先生に出来ることがあったら、なんでも言ってくれ!」  水面下で行われている企みに気づく様子もなく、古賀は能天気な笑顔を浮かべた。僕は心の中でげんなりとため息をつきながら、その時間が早く過ぎ去る事を祈っていた。   「おまえら、女装して出てこいよ。藤山は妊婦な。その出っぱってる腹、たまには有効活用しろよ」  そういって堂前は、でっぷりと突き出た藤山の腹を拳で突き上げた。グェッ、と蛙が潰れたような声をあげて藤山は教室の床にうずくまった。堂前とその取り巻きはゲラゲラと下品な声を上げて笑った。 「きゃ、脚本は……」  僕がそう尋ねると、堂前は不機嫌そうに片方の眉を歪めた。 「あ? 知らねえよ。お前らで勝手にやっとけば。もちろん、女装は絶対条件な。なるべく派手な服とメイクにしとけよ。馬鹿でも笑えるやつがいい」  そう言い捨てて、堂前達は教室を去っていった。夕陽の差し込む教室で、僕と藤山は二人きりになった。  カースト最底辺の二人組だ。  助けてくれる人間なんていやしない。 「み、溝呂木くん、どうしよう……」  お腹をさすりながら立ち上がった藤山は、世界の終わりを迎えたような悲惨な表情をしていた。もしかしたら僕も同じような顔だったかもしれない。 「……脚本は僕が書くよ。完成したら、放課後に二人で練習しよう。正直、気は進まないけれど」 「で、でも……僕達に出来るかなぁ」 「……やるしかないよ。文化祭に出なかったら、またアイツらに殴られるだけだ」  僕がそういうと、藤山は覚悟を決めたように頷いた。そうして僕らは、文化祭に向けて嫌々ながらも動き出すことになった。    脚本の内容は、演劇というよりお笑いのコントに近いギャグテイストなものにした。  どうせ全校生徒の前で笑いものになるのなら、せめて自分達のコントで笑わせてやった事にしよう、と僕は考えたのだ。  藤山を妊婦の姿で女装させろ、という堂前の条件もあったので、その設定を軸にした。  コントの内容はこうだ。  藤山の扮する妊婦の妻がつわりを迎えて、あれが食べたい、これが食べたいと夫役の僕に対して注文をつける。  夫は言われた通りの料理を持ってくるのだが、なぜか妻はそれに手をつけない。  その理由は、お腹の赤ん坊が妊婦の頭の中に直接「野菜はオーガニックのもの以外は受け付けない」などと語りかけているからだった……という展開だ。  赤ん坊が、赤ん坊らしくない気取った文句を言う所と、それに翻弄される僕の様子が笑いどころになるコントだった。  出来上がった脚本を印刷して渡すと、藤山は食い入るようにそれを読み始めた。  僕は少しだけドキドキとしながら、藤山が最後のページまで読み終えるのを待った。  途中、藤山が「ぐふっ」と空気を潰したような声をあげた。笑っていたのだ。僕は藤山に気づかれないようにグッと拳を握った。 「溝呂木くん。これ、面白いよ!」 「そ、そう? 適当に書いてみたんだけど」 「すごいよ! 僕、読んでるだけでも、つい笑いそうになっちゃった!」 「……なら良かった。でも、メインの妊婦役を演じるのは藤山だからね。セリフ、少し多いけど大丈夫?」 「自信はないけど……頑張ってみるよ! せっかく溝呂木君がこうやって面白いお話を書いてきてくれたんだから」  そういって、藤山はふくよかな頬を揺らして満面の笑みを浮かべた。  コントの稽古は、放課後に僕の家の近所にある寂れた神社の境内で行うことにした。  学校の中では絶対に練習できない。もし堂前達に見つかってしまえば、きっと笑いものにされるだろうし、まともな稽古がつけられないことは確実だからだ。  人気の少ない神社の境内は存外に広く人目を忍んで稽古をするにはうってつけだった。  僕と藤山は授業中も隙を見ては台本を覚え、放課後になると神社で稽古を繰り返した。  台本を書いた本人である僕はセリフを覚えるのにもそれほど苦労しなかったのだが、藤山の方は随分と苦戦していた。暗記に加えて、妊婦の演技まで身に付けなければならないのは、結構な負担だったようだ。  ふぅふぅと額に汗しながら、藤山は神社の階段に座って演技の練習をしていた。 「いい子ね、私の赤ちゃん……」 「んー、なんかまだ照れがあるんだよなぁ。恥ずかしがっているように見える」 「んー、だって恥ずかしいんだもん。僕、妊婦さんだった経験なんてないし」 「そんな経験、僕にだってないよ。でも、ここの演技はなんとか頑張って欲しい。妊婦の気持ちをイメージしてさ。本番はマタニティドレスだって着るんだよ? こんな所で恥ずかしがってたら、話にならないよ」 「そ、そっか……。その、イメージってどうやればいいのかなぁ」 「え? うーん、そうだなぁ。出産のドキュメンタリー番組を見て研究してみるとか? ほら、夕方とかにテレビでやってるヤツ」 「あー、なるほど。わかった、注意してよく見てみるよ。妊婦さんの動きを真似していれば、きっとソレっぽく見えるよね」  それから藤山は妊婦の動画や、子育て雑誌なんか読んで研究するようになった。歩き方や、座り方。愛おしそうにお腹を撫でたり、語りかけてみたりと、その動作のリアリティは日に日に増していった。  街で歩いている妊婦を見かけたりすると、食い入るように見つめるので、慌てて注意した。側から見ると、ものすごくヤバいヤツみたいだったからだ。  そんな努力の甲斐もあって、文化祭が目前に迫る頃には、藤山の演技はなかなか堂に入ったものに変化していた。 「私の赤ちゃん、いいこ、いいこ……」 「うん、良い良い。本当にお腹の中に子供がいるみたいだ」 「……うん」  藤山はどこかぼんやりとした表情で小さく頷いた。またか、と僕は思った。演技に本腰で取り組むようになってから、藤山はどこか呆けたような様子を見せるようになっていた。役に入り込みすぎているのか、いつもの藤山に戻るのに時間がかかる。憑依型、というのだろうか。藤山にはそういう演技の才能があった。  調子に乗って頑張らせ過ぎてしまったかもしれない、と僕は少し不安になっていた。藤山は基本的に僕の提案に逆らわないし、練習にも真面目に取り組むから、演技をさせるのがつい楽しくなってしまっていたのだ。  けれど文化祭さえ終われば、それも終わる。藤山にこれ以上負担を強いることもない。  この時の僕は、まだ楽観的に考えていた。それに、いつのまにか文化祭が楽しみになっていた。全校生徒の前で、藤山と練り上げたコントを披露する。そこで堂前達の企みを鮮やかに覆し、みんな爆笑をかっさらう。僕らは校内の人気者になり、カーストは逆転する。そんな妄想が膨らみ、心のエンジンになっていたのだと思う。  もしこれが漫画や小説なら、そんな都合の良い展開もあったかもしれない。けれど、現実はそう上手くはいかなかった。  結論から言えば、僕らは失敗した。  笑いは取れず、笑いものになった。  そもそも、スクールカーストの底辺が二人で組んでやるコントなんて、気にする生徒の方が圧倒的に少ないのだ。  どんなに頑張って舞台を作っても、まともに見てもらえなければ評価される筈もない。  客席はまばらだった。  僕らにあてがわれた時間は、みんなにとっては「トイレタイム」だったわけだ。  席に残っている生徒達にも、どこか僕たちを冷笑するような雰囲気があった。  僕は生まれて初めて壇上で感じた冷たい空気に、完全に呑まれてしまった。  声が上ずる。セリフが飛ぶ。一つの失敗が次の失敗につながってしまう。  ミスをするたびに会場の音が遠くなっていくようだった。視野がきゅーっと狭窄して、耳の奥がツンとしてくる。  ほとんど真っ白になってしまった僕の視界には、マタニティドレスを着た藤山の姿だけが鮮明に映っていた。ゆったりとした動作で愛おしそうに腹を撫でている藤山。  覚えているのはそれだけだ。  気がつけばまばらな拍手の音と共に、幕は下りてしまっていた。  呆然としながら舞台袖に降りると、そこで待っていた担任教師の古賀に「もう少し、やりようはなかったのか」と小言を呟かれた。  そうして、僕と藤山の文化祭は終わった。  けれど僕達の「最悪」はここから始まったのだと思う。  文化祭を経て、クラス内のカーストは決定的なものとなっていた。  頂点にいるのは堂前達のグループで、僕と藤山は彼らのおもちゃだ。笑いものにされ、パシリにされ、都合よく使われた。  特に藤山の扱いは酷いものだった。文化祭で披露した妊婦の演技を、堂前が気に入ってしまったからだ。  藤山は、文化祭が終わった後も四六時中妊婦の演技をさせられていた。登校中も、授業中も、休み時間の間もずっと。僕は、演技をする藤山があのぼんやりとした目で居続けている事が気にかかっていた。役にのめり込んでしまっている時の虚ろな目だ。  本当の藤山が塗り潰されて消えてしまう。  僕は、そう感じていた。  はやく何とかしなければ。堂前達に言って、あの演技をやめさせなければ。  けれど、勇気が出なかった。  余計な口を出して殴られたり、馬鹿にされたりするのが怖かった。  僕がそうして二の足を踏んでいる間に、あの事件は起きてしまった。  中学二年、冬の出来事だった。 「気持ち悪いんだよ、テメェはよ!」  休み時間、いつものように妊婦の形態模写でお腹を庇うように階段を下っていた藤山を、堂前が突然後ろから蹴り飛ばした。  理由はわからない。偶然に彼の虫の居所が悪かっただけなのかもしれない。  何にせよ、いきなり蹴り飛ばされた藤山は階段の一番下まで勢いよく転げ落ちていった。その瞬間も、藤山はお腹を庇うように身体を丸めていた。  うぅ、と呻き声をあげて動かなくなった藤山を見て、堂前は慌ててその場所を立ち去っていく。  そんな堂前とすれ違うようにして、僕は倒れた藤山の近くに駆け寄った。 「藤山! おい、藤山!」  耳元で大きな声で叫び、頬をペチペチと叩いた。藤山の瞼がぴくりと動く。意識があることだけは分かった。 「だ、大丈夫か? どこか、痛いところないか!?」  僕がそう問いかけると、藤山は蚊の鳴くような小さな声で応えた。 「あ……赤ちゃん。赤ちゃんが……」  瞼を開けた藤山の視線は出っ張った自分の腹部に向けられていた。こんな時までお腹の子供を案じる演技をしている。  僕は頭がカッと熱くなるのを感じた。 「……っ! もういいんだよ、藤山! ここに堂前はいないよ。無理して妊婦のマネなんてしなくていいんだよっ!」  僕は藤山に肩を貸し、保健室まで連れて行くことにした。チャイムは鳴り、とっくに授業が始まっていることに気がついてはいたが、このまま放っておくことは出来なかった。  タイミング悪く保健室は無人だった。僕は苦しそうに呻いている藤山をなんとかベッドまで連れて行き、重たい身体を必死に押し上げてそこに横たわせた。  ぐったりと白いシーツに身を沈めた藤山に怪我は無いようだったが、どう対応したらよいのかが分からなかった。  誰か先生を呼ぼう。そう思って僕が足を踏み出した、その時だった。 「ま、待って……」  藤山がベッドの上から僕を呼んだ。 「どうした? どこか、痛むのか?」 「い、痛いは痛いけど……そうじゃないんだ。もうすぐ、産まれる……」 「……はぁ?」  この後に及んで、藤山はまだ妊婦の真似事をしているようだった。  今は冗談を言っている場合じゃないのに。  頭にきてしまった僕はつい怒鳴ろうとしたが、藤山の様子を見て思いとどまった。  額にかいた大量の脂汗。  必死にシーツを掴んでいる片腕。  固く食いしばった顎。  藤山は本気だった。本気で、何かを産もうとしていた。 「あ、頭の中に語りかけてくるんだ。もうすぐ会えるよ、産まれるよって……。僕の赤ちゃんだよ。僕たちの赤ちゃんだ。もうそこまで来ているんだ。あと少しなんだよ。溝呂木君も、一緒にいてよっ……」 「何を言ってるんだよ、藤山……」 「子供だよ。産まれるんだ。溝呂木君が書いて、呼び寄せた。そして、僕に宿った。見えていない? 感じていない? ここに確かにいるよ。ほら触ってみてよ」  ぬるりと汗ばんだ藤山の手が、僕の腕をギュッと掴んだ。物凄い力で引き寄せられ、僕の頭が藤山の腹に押しつけられる。  ドクン、ドクン。  何かが脈打っている。  確かにそこで生きている。  そんな馬鹿な事があるものか。  これは、藤山自身の心臓の音だ。  僕は、自分にそう言い聞かせた。  けれどなにか拭いきれない不安があった。  脈動があまりにも近い。まるで、本当に藤山の身体を隔てたすぐ隣の場所で、何かの心臓が蠢いているかのように。 「や、やめろよ!」  僕は頭を強く振って、藤山の手から抜け出した。その勢いで、保健室の棚に身体が強くぶつかる。大きな音が鳴る。 「き、気持ち悪いんだよ! 変な妄想もいい加減にしろよ!」 「妄想だなんて……ひどいよ。この子は、ここに確かにいるのに」  藤山が、膨らんだ自分のお腹を撫でている。愛おしそうに、慈しむように。 「……やめろ、やめろおおおッ!」  気がつくと、僕は保健室を飛び出して廊下を全速力で走っていた。まだ授業があるのにも関わらず、玄関を抜けて自分の家まで。  布団を頭からかぶり、ガタガタと身体を震わせる。脳裏に浮かぶのは、あのどこかぼんやりとした藤山の表情と、ドクン、ドクンと脈動する得体の知れない何かの音だ。  藤山はおかしくなってしまった。  僕が、あんな演技をやらせたせいだ。  けれど、本当にそれだけなのか?  本当に、ただの妄想なのか?  あのお腹の中に、僕には想像もつかない何かが存在していたのだとしたら。  僕は頭の中に浮かび上がり続ける馬鹿げた妄想を、必死に振り払おうとしていた。  布団にくるまり、足元から迫り来るねばりつくような不安と戦いながら。    数日間学校を休み、再び僕が登校する頃にはクラスの様子は一変していた。  まず、クラス担任が佐藤という名前の定年間近の女性教師に変わっていた。  前担任の古賀は、顧問をしているサッカー部の指導中に大怪我をしたらしい。  上から落ちてきたブロック塀で強く頭を打ち、意識不明の重体なのだという。  なんとも奇妙な話だ。古賀がいたのは校庭のど真ん中だった。何かが上から落ちてくるような高さの建造物は、近くには無いのに。  また、堂前を中心とするグループのメンバーもそのほとんどが欠席していた。  古賀のように大怪我をしたもの。高熱を出して寝込んでいるもの。急に口をきけなくなってしまったもの。  彼らの噂には事欠かなかった。僕が話を聞いた生徒達は、彼らを心配をしているような口ぶりではあったが、目の奥にある好奇の色を隠しきれていなかった。  中でも堂前の話題になると、目を爛々と輝かせながら声を潜めて喋り始めるのだ。 「ああ、あいつね」 「酷いものだったよ。糞塗れでさ」 「履いてなかったんじゃないかな、下も」 「張り付けだってよ。あのまま発見されてなかったら死んでたかもな」 「顔は良かったけど……日頃の行いがねぇ」 「流石にゲンメツ、って感じ」  僕が保健室から逃げ帰ったあの日、堂前は校庭にある掲揚台のてっぺんに括り付けられていた所を警備員に発見された。  見るも無惨な状況だったらしい。  正気を失いかけていた堂前は、あの日から一度も学校に来ていない。  姿を消した人物は、もう一人いる。  藤山だ。  大怪我などで休学を余儀なくされた他の生徒とは違い、藤山は正式な手続きを踏んで転校していったのだという。  藤山の安否を心配していた僕は少し安堵したのだが、同時に言いようのない不安も感じていた。  ありえない状況で大怪我をした古賀。とても人の手では届かないような場所に無様な格好で括り付けられていた堂前。  人間には不可能な仕業だ。  けれど、もしそれを行ったのが人間ではなかったとしたら。  あの日藤山が産み落とした得体の知れない「赤ちゃん」が、その何かだったとしたら。  馬鹿馬鹿しい妄想かもしれない。  けれど、僕は忘れる事が出来なかった。  藤山のお腹に押しつけられた時に感じた、あのドクン、ドクンという脈動を。    あれから数年が経った。  先日、僕は街中で藤山らしき人物を見かけた。昔に比べて体型は随分とほっそりとしていたが、間違いない。  目が、あの頃のままだった。  僕は彼に関わる事なく、その場から逃げ出した。  あの日、何が起こったのか。それを明らかにするのが恐ろしかったからだ。  ……大粒の雨が降っている。  窓の外は真っ暗だ。  そこには何も見えない。けれど、僕には見えない何かがいるように思えてならない。  あの日逃げた僕を、追いかけてくる何かが。
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