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息を引き取った真弓を、父や要と一緒に玄関に入れるのは一苦労だった。なんとかリビングに布団を敷いて横たわらせると、母の「遺体」は日常の空間を非日常の空間に変えたのだった。 ―最後までわかりあえなかったなー 美月は眠っているように綺麗な真弓の顔を眺めながら、わかり会えなかった悲しい日々を思い出していた。 「美月、お母さん、眠っているようだね……」 いつの間にか、泣きはらした目で肩を落とした英二郎が美月の側に来ていた。手には風呂敷包みを持っていた。 「告別式ではこれを着なさい。お母さんが用意した喪服だよ」 「喪服?」 「ああ、お母さんがお前のために誂えた喪服だよ」 「お母さんが私のために?」 風呂敷包みをほどき、畳紙を開くと、真弓が誂えてくれた喪服にはまだしつけ糸がついていた。 「お母さんは『自慢の娘だ』『いい子に育った』ってよく言っていたよ」 英二郎のことばに、美月は余計に胸がふさいだ。結局、母の真弓がほめてくれるのは、美月が「いい子」にしている時だけなのだ。要はいい大学に入らなくても、いい会社に就職しなくても、無条件に愛されるのに……。 その夜、美月は真弓の枕元で喪服の躾糸を解いた。真弓は自分の葬儀に着るものが必要だろうと思って、美月の喪服を用意してくれたのだろう。 真弓は眠っているような安らかな美しい顔をしていた。 真弓がパーキンソン病を患い、美月が懸命に看護するようになってからも、真弓の口から「昔よく叩いて悪かったね。ごめんね、美月」という言葉は結局最後の最後まで聞けなかった。 真弓が苦労してきたことは、美月が一番よく知っていた。だから今日まで美月は黙って「いい子」を演じ続けて来たのだ。 喪服の躾糸を解く手を止めて、美月は真弓の顔を見て言った。 「お母さん、告別式はお母さんが作ってくれた喪服を着るね。襟に私の名前まで入れてくれたのね。ありがとう、お母さん」 美月の目から涙がこぼれ落ちた。美月は真弓にすがるように訴え続けた。 「でもね、お母さん、私は喪服よりもお母さんにもっと愛して欲しかった。お母さんの前でありのままでいたかった。最後に『ごめんね』って言ってほしかった。私がいい子でなくても愛して欲しかった。私はずっと寂しかったよ」 真弓が美月のために用意した喪服に涙が滴り落ちた。 「お母さんは明後日には、灰になってしまうのね。でも、私のお母さんへのわだかまりはどうしたらいいの。お母さんと一緒に、私の寂しさも、わだかまりも、灰になってくれるのかしら……」 母への憎悪と言えるほどの激しい感情は、美月が母に愛を求めて得られなかった寂しさから生まれた感情だった。「愛されたい、愛されたい」と叫ぶように、涙がこぼれ落ちていくのだった。 美月は真弓の用意した喪服を着て、真弓の喪儀を滞りなく終えるだろう。 ―でもきっと……。 と、美月は思う。 ―それが、私が演じる最後の「いい子」だ。 人は二度生まれると言う。初めは母親から生まれた時、そして二度目は……。 ―お母さんが死んだ時に「いい子」だった私も死んで、私は新しく生まれ変わるのだー そんな美月を冴えた秋の月が照らしていた。どこからか要が号泣する声が聞こえて来た。金木犀の香りが、美月の心を慰めるように香っていた。              <完>
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