観覧車

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 観覧車 回れよ回れ 想ひ出は 君には一日 我には一世 栗原京子『水惑星』(雁書館、1984年)  地学準備室のドアを開けると、一首の短歌が書かれた紙がホワイトボードに貼ってあった。読んでみると、中学生の教科書で見たことのある歌だった。 「おっす」  という声とともに藤原奏多が入ってくる。奏多もホワイトボードの歌を見て、じっと固まる。そして、少しうんうん唸った後、通学鞄を床において、椅子にトスっと座った。 「いよいよ、だな」  奏多が挑戦的な目で見てくる。 「明里はこの歌、元々知ってた?」 「中学の教科書に書いてあったからね」 「ふうん」  その反応を見るに、奏多は知らなかったのだろう。でも、これはそんなに大きなアドバンテージにはならないことは、2人ともわかっていた。先輩から聞いていた話では、この勝負はお題が発表されてから3週間ほどの猶予があるはずだった。  今のうちにあれこれ解釈を考えていると、ドアが勢いよくガラガラっと開いた。 「やぁ、明里、奏多。お題は見てくれたかな?」  小山内先輩は開口一番、ニコリとしながら勝負の開始を宣言する。 「じゃあ、文歌部の時期部長決め勝負の開始です!」 小山内先輩は人差し指をたて、ビシッとポーズを決めながらそう言った。 ***  東京都と神奈川県の県境を流れる川は、境川と呼ばれる。この境川を臨む私立下鶴間高校には、昔は部活に参加しなければならないという規則があったらしい。昔からいる先生たちの多くは、今でも部活への入部を強く推奨していて、 「3年間、部活動を頑張ることで人間的に成長できる」 という根拠もない信条を掲げていた。高校2年生の夏になった今でさえスカートの裾を折るくらいしかできない明里にとって、入学当時に部活動に入らないという選択肢はないに等しかった。とはいえ身体を動かすのは苦手で中学でも帰宅部だった明里が入ることのできる部活は限られていて、その中で最もマシだと感じたのが「文歌部」だった。  下鶴間高校にはその昔、文芸部と短歌・俳句研究会があったのだが、入学者の減少と部活動の強制加入がなくなったことでどんどん人が減っていき、統合されたのがこの「文歌部」らしい。文芸の文と短歌の歌で「文歌部」。明里が入部した当時は3年生の先輩が5 人在籍していたのだが、去年無事に下鶴間高校を巣立って行った。その際に聞いたのが、伝統的に受け継がれている部長の決め方だった。 「もう知ってると思うけど、改めてルールを説明するね!」  小山内先輩はノリノリでホワイトボードの前に立ち、水性マーカーを手に取った。 「先輩、楽しそうですね」  奏多が遠慮なく突っ込む。元々、少人数の部活というのもあって、先輩後輩の仲は良かったが、私たちの代は人数が少なく、特にそれが顕著だった。 「だって、去年は私1人だけだったからね」  小山内先輩が寂しそうに呟く。  明里と奏多の1つ上の学年には、元々2人の先輩がいたのだが、そのうち1人は去年からほとんど顔を見せず、幽霊部員になっていた。そのため、部長は必然的に小山内先輩に決定したのだった。  文歌部への入部当初、明里や奏多の入部を一番に喜んでくれたのが、一学年先輩の小山内先輩だった。明里が小山内先輩に抱いた第一印象は、いかにも文学少女という感じだった。三つ編みおさげで丸いメガネ。雨の日に文庫本を読んでいるその姿を見たときは、神々しさまで感じたほどだった。しかし時間が経ち段々と喋るようになるにつれて、小山内先輩の快活さ、明朗さを知ることになった。特に意外だったのは中学時代は陸上部のエースだったという噂で、本人は 「エースは大袈裟よ。単に走るのが速かっただけ」 といっていたが、その後、同じ中学出身で小山内先輩のファンだという女の子の話を複数人から聞いた。今でも、文歌部で一緒だというと羨ましがられることも多い。明里が文歌部にはいることができて良かったと思うことの一つは、小山内先輩と一緒の時間を過ごせたことだった。だからこそ、この勝負は負けられない。 「ルールは単純で、この短歌の解釈を考えて欲しいの。期間は、そうね。3週間もあれば十分かしら」  小山内先輩がルール説明を続ける。 「勝敗はどうやってつけるんですか?」  奏多が訊ねる。明里も先輩づてでしか聞いたことがなく、気になるところだった。 「いつもなら上級生、つまり3年生が匿名で投票をして決めていたんだけど、今年は私しかいないからね。私が面白いと思った方に部長をやってもらおうと思うわ」 「面白い、ですか」 「そう。文歌部で評価されるのは、ひとえに面白さよ」  明里と奏多が顔を見合わせる。面白さ、というのはかなり曖昧だし、人によってもかなり違いそうだ。明里がそう思っていると 「それと、今回は特別ルールを用意しています」  と改まった顔で小山内先輩は言う。きっとロクでもないことに違いない、と明かりは思った。 「この歌は、恋愛の歌として解釈してもらいます。つまり、恋人か、そうなりそうな仲っていうことね」  小山内先輩は嬉しそうに「キャッ」と笑った。この人は、本当に楽しんでるんだな、と思う。 「じゃあ、それまで文歌部の全体での活動は何もなし!以上、今日は解散!」  そういって先輩は去っていった。先輩は今年で3年生ということもあり、最近は何かと部活動に顔を出すことも少なくなっていった。季節はもう6月で、受験生にとっては勝負の夏と言われる夏休みを1ヶ月後に控えている。先輩は塾やら何やらに通っているみたいだけれど、2年生の明里と奏多には、受験なんてまだ先の先だ。2週間後にある定期テストですら、どこかやる気を出せないでいる。  今年の梅雨は雨が降らず、ここのところ晴れの日が続いていた。明里と奏多が残された地学準備室は、西日が差し込んでオレンジ色に染まっていた。 ***  次の日、地学準備室のドアを開けると、すでに奏多がきていて、何やら本を読んでいた。地学準備室はいいソファが1台あり、先に入ってきた方がそのソファを独占できる。明里が入ってきたことに気がつくと、背表紙を向けて 「いいだろ」  と言って笑った。  見るとそれは、例の短歌の作者の短歌集だった。図書室から借りてきたものだろう。「ずるい」と言おうと思ったがやめた。別に狡くはないし、むしろ短歌を紐解く上でその作者の短歌を読むのは正当な手続きと言えた。 「2週間ずっと借りっぱなしにするつもりじゃないでしょうね」 「まさか。一通り読み終わったら返すよ」  そう言って奏多はまたページを繰り始めた。その様子からして、今回の勝負はかなり気合が入っているようだ。  奏多が文歌部に入部してきたのは、明里が入部をしたすぐ後のことだった。奏多も担任の先生に部活へ入れという圧を受けていたらしく、奏多の姉が元文歌部だったということもあって入部を決めたらしい。身長が高くて目つきが鋭く、割とがっしりとした体型の奏多に最初は孤立気味だったが、だんだんと時間が経つにつれて部に馴染んでいった。特に当時の3年生の先輩は奏多の姉を知っていた世代で、最初は「藤原くん」と呼ばれていたのに、いつの間にやら「奏多」と下の名前で呼ばれ、可愛がられていた。  明里が小説全般を読むのに対して、奏多は推理小説をメインに読んでいるようだった。ジャンルがかぶることのない分、本の貸し借りなどをたまにしたりしていた。小山内先輩はといえば、もはや乱読に近いような読み方をしており、アフリカのとある部族の風習から月面の裏で起きる科学戦争までなんでもござれという感じだった。  特にやることもないので数学の宿題に手をつけていると、ひと段落ついたのか奏多が 「なぁ」  と声をかけてきた。顔を上げて時計を見ると、準備室にきてからもう1時間が経とうとしていた。 「あの歌、恋愛の歌じゃないとどういう読み方ができるのかな?」  奏多がホワイトボードを指差す。例の歌のことだ。 「それ、解釈のヒントにならない?」  明里が怪訝そうにしていると、奏多は 「カタいこと言わずにさ」  と笑った。明里からしても気になっていたことだったので、おしゃべりに興じる。少し間をとって、考えを整理する。 「まず一つは、親子かな」 「それは俺も思った。子どもにとっては大きくなって忘れてしまうような、1日の思い出だとしても、親である自分にとっては一生心に残っているよ、って感じかな」  奏多のその解釈は、授業中に明里が思っていたまさにそのものだった。親子であれば、「君には一日」であり、「 我には一世」であるということは十分にあり得そうだった。 「もう一つは、老夫婦ってバージョンかな。これは、恋愛に近いかもしれないけど」 「ほう」  奏多がわざとらしく驚いてみせた。思いついているのかどうかわからないけど、言い出したのだから説明する。 「読み手は、長年連れ添ったおばあちゃん。おじいちゃんはアルツハイマーで記憶が1日くらいしか持たないの。それで、おじいちゃんはもうその観覧車に乗った思い出を忘れてしまっているんだけれど、おばあちゃんの中にはしっかりと残っているよ、みたいな」  説明し終えた後で、明里はこの解釈は悪くはないんじゃないかな、と改めて思った。面白さで言えば、まずまずのはずだ。 「それ、若年性のアルツハイマーにすれば恋愛で使えそうだな」  奏多がニヤッと笑った。それに対して明里は、納得のいかない点を口にする。 「でも、どうだろう。恋愛の歌として面白いかって言えば、まぁわかんないよね」 「じゃあ、とりあえず保留かな」  他にはあんまりいいのが思いつかなかったので、明里は黙っていた。少しの沈黙の後、奏多が疑問を口にする。 「わかんないのは、『回れよ回れ』の部分なんだよな」 「どういうこと?」 「さっきの記憶の中の観覧車ならまだしも、もし実際に乗っていたら『回れよ回れ』ってなんだかおかしい気がしないか?」  確かに、言われてみればそんな気もする。これがコーヒーカップならまだしも、観覧車は普通、1周してしまったらそれで終わりだ。終わって欲しいのか、欲しくないのか、よくわからない。 「確かに、記憶の中の観覧車ならおかしくは… ないかもね」  明里はさらっと答える。もしかしたら敵にヒントを送ってしまったかもしれない。その思いが表情に出たのか、奏多が慌てた様子で答える。 「安心してよ。これは本番では使わない。本当に」  使ってもいいよ、とは言えなかった。一応、これでも真剣勝負なのだ。ふと疑問に思って奏多に訊ねる。 「奏多って、なんで部長になりたいの?」  虚をつかれた質問だったのか、奏多はうーんと唸り声を上げる。 「どうだろう。なんかあんまり考えてなかった。勝負って言われたから、とか?」  曖昧な返事が返ってくる。 「明里は?」 「私は、小山内先輩のあとを継いでみたいって気持ちが強いかも。あとは部長になったら好きな本を買えるかもしれないし」 「それ、思いっきり職権濫用だから」  奏多は笑った。お互い、理由はあれど真剣なのだ。これは言わなかったが、大学推薦を受ける場合、部活の部長をやっていると有利に働く場合もある。もちろん、関係ないこともあるのだけれど、プラスになる可能性があるなら、やっておいた方がいいはずだ。文歌部の部長はほとんど仕事はないし、その意味でも「やり得」だということは、小山内先輩の口から聞いていた。 「恋愛の歌、か」 奏多がつぶやいた。明里は歌集なども読むようにしていたが、愛の歌や恋の歌は苦手だった。ベタッとしたような肌触りの歌が多く、好みではないと感じたのだ。うーんと唸っている奏多も、普段からあまり短歌や俳句を嗜んでいる様子はない。その意味では、今回の勝負はフェアと言ってよい。 「お互い、頑張りましょ」 言っては見たものの、明里は何を頑張ればいいのか、よくわかっていなかった。とりあえず、目の前の宿題を片付けるところから始めることに決めた。 *** 「朝ごはん食べないの?」  というお母さんの言葉に答える余裕がなくて、パンを頬張りながらふがふがと返事をした。今食べている。あかりは朝が弱く、いつも時間ギリギリになってしまう。慌てて壁掛け時計を見る。もうすぐ家を出なければ、朝のHRに遅れてしまう。ヨーグルトを流し込むようにして食べる。カバンのチャックを勢いよく閉めたところで、昨日読みかけだった小説がベッドに置きっぱなしになっていることを思い出す。ちょっと迷ったけど、自分の部屋に取りに行く。これがないと、電車の中で暇をしてしまう。  家を出て駅に着いた時、ちょうど電車がきていた。勢いよく電車に滑り込み、髪を挟み込まれそうなほどギリギリでドアが閉まる。間に合った。この電車に乗ればもう安心だ。息と髪を整えて、手に持った本の表紙を見つめる。  明里はよく、本を読んだまま寝てしまうことがあった。面白い本やシリーズものにハマっている時は夜更かしをすることがしょっちゅうで、よくお母さんに怒られていた。1年生の時、歴史小説に夢中になって成績がガクッと下がった時は、家の中で読書禁止令が出されたほどだ。その時は部活の時にも勉強をして、成績を頑張って戻したっけ。  今、明里が手にしている小説は、時代小説だった。舞台は江戸末期。商人として生まれた主人公は、動乱の時代を知恵と勇気を胸に生き抜き、明治維新という世の中のうねりに巻き込まれていく。明里は読んでいる小説によって気分がコロコロ変わるのを自覚していた。学校の最寄り駅に着くまでの数十分の間、明里の心は新しい時代の夜明けを見つめる、風雲児の魂と重なった。 「次はー、田町、田町」 というアナウンスで急に現実に引き戻されるまで、学校のことも、観覧車の歌のことも忘れて、ただぼんやりと1人の世界に浸っていた。  朝のホームルームには間に合ったけれど、午前中の授業は睡魔との戦いだった。6月は暑くもなければ寒くもない、居眠りにはちょうどいい時期だった。授業が苦手な数学だったことと、昨日の徹夜での読書の影響も相まって、明里はずっとうつらうつらしていた。本当なら例の短歌について色々考えたいことがあったけれど、後ででいいやと思っているうちにお昼休みになってしまった。  お昼ご飯は教室で食べることもあれば、地学準備室で食べることもあった。教室で食べるときは、大体同じクラスの千紗ちゃんと一緒にお弁当を食べる。千紗ちゃんは背が高く、2年生ながらバレー部で活躍していた。バレー部はそれなりに強豪らしく、お昼休みに練習をしたりミーティングすることもままあった。明里は地学準備室に行っても1人にならないということもあって、1年生の時からずっと一緒にご飯を食べていた。今日も、千紗ちゃんは 「ごめん、ミーティングがあるんだ」  と言って、チャイムが鳴ってすぐ、颯爽と廊下を駆けて行った。揺れるスカートを見ながら、明里はカッコイイなと思った。  仕方ないので、お弁当を持って地学準備室に向かう。本当は準備室での食事は禁止されているのだけれど、文歌部の人しかこないし、黙認されている。  準備室に向かうと、話し声が聞こえてきた。なんとなく忍足で近づくと、小山内先輩と奏多が話している声が聞こえた。例の短歌の件で何か聞いているのだろうか、という考えが頭をよぎったけれど、すぐにそれを否定する。奏多はそんなことはしない。聞き耳を立てるけれど、小さな声で喋っているので、今度の日曜、とか電車で、とかいう単語しか聞き取れない。ずっとじっとしているのも居心地が悪くなったので、ちょっとドアから離れて、わざと音を立てて教室に近づいていき、ドアを開けた。  普通に入ったつもりだったけれど、奏多が勢いよくこちらを振り返った。明らかに、何か、マズい、という顔をしている。一方の小山内先輩は全く表情を崩さず、 「あら、明里。今日はお昼はここで?」  と聞いてきた。奏多だけに隠し事があったのか、小山内先輩がポーカーフェイスなのかの判断はつかない。 「あ、はい」 いきなり話を振られて、間抜けな声がでる。 「今度の日曜さ、明里は時間ある?」  一呼吸おいて、聞いてきたのは小山内先輩だった。 「暇ですけど」 「じゃあ鶴間ランド行かない?」  鶴間ランドは、学校の最寄り駅から3駅隣にある、比較的大きな遊園地のことだった。地元の中学生、高校生には特に人気で、カップルや友達同士で行ったという話はよく耳にする。明里は中学の卒業式で友達と行ったきりだった。 「イイですけど。先輩は受験、大丈夫なんですか?」 「それは、まぁ。なんとかなるでしょ。文歌部の思い出づくりということで」 「文歌部で行くんですか?」  文歌部で、というと、ここにきてないメンバーも集めるつもりだろうか。明里の心配を先読みしたように、小山内先輩は答える。 「いや、メーリス回してる時間もないし、この3人で行こうか」  奏多の方を見ると、何も言わないで突っ立っていた。明里の目線に気がついてようやく 「イイですね」  と口にした。いきなり来週の予定を聞かれて暇なのは、春真っ盛りの高校生としてどうかと思ったけれど、それは明里も同じだったので茶化さないことにした。 「じゃあ、そういうことで。集合は、鶴間ランド前駅に10時でいいかな?」 「もう少し遅い方が助かります」 「じゃあ11時で!」  その日はそれで解散になった。明里はお昼をかき込むように食べて教室に戻った。その途中で、準備室で奏多と小山内先輩が話していたことは、遊園地のことだったのだろうかと思い返していた。 ***  日曜日は、あっという間にやってきた。時間というのは、忙しい時には飛ぶように過ぎてしまう。新部長を決めるための短歌の解釈の発表まであと二週間と少ししかないのだけれど、明里は全くと言っていいほど良いものが浮かんでいなかった。ありきたりなものはできるし、突飛なことも言えそうな気がする。でも、新鮮で”面白い” 解釈というのは、まだ考え付かない。通学の電車やお風呂でどうしようと首を捻ってみても、何も浮かんではこなかった。テスト勉強にも追われていて、なかなか集中して考える時間がない。  遊園地の最寄駅に着いたのは、11時5分前だった。奏多も小山内先輩も同じ電車に乗っていたようで、自然と集合できた。当たり前なのだが、奏多も小山内先輩も私服だった。奏多は黒のジーンズに白のパーカー、小山内先輩は薄いグリーンのワンピースだった。奏多の印象がいつもとは違うと思っていたら、奏多も眼鏡をかけていた。制服を着ていない奏多と小山内先輩は、明里の知っている2人とは、ちょっとだけ違う。小山内先輩は、少し底の厚いヒールを履いているのか、いつもよりも少しだけ目線が高い。駅のホームから出ると、大きな観覧車が目に入る。  そうだ、そういえば鶴間ランドには大きな観覧車があることでも有名だった。中学の時に乗ったかどうかに着いては、明里は覚えていなかった。 「そう、今日の最後にはあれに乗りたいと思いま〜す」  くるりとこちらを振り向いて、小山内先輩は言った。ワンピースの裾がふわりと開く。小山内先輩はやけにハイテンションだ。受験で相当ストレスが溜まっているのかもしれない。明里は、観覧車に乗るまではあれこれ考えるのをやめようと思った。 「イイですね、まずはどこにいきます?」  マップを開き、あそこに行こう、その後はここにと作戦会議が始まった。  日が暮れ始めた頃、明里たちは心地よい疲れを感じていた。小山内先輩は同じジェットコースターに何回も何回も乗りたがったし (結局、明里と奏多は2回でギブアップした。小山内先輩は3回乗ってもまだ乗りたそうだった)、奏多はお昼の時間にやっていた動物専門学校生のヤギショーに手がジーンとしそうなほど強く拍手を送っていた。忙しい時間もあっという間だが、楽しい時間もすぐに過ぎる。程なくして、閉園1時間前のアナウンスが流れ始めた。 「いよいよ、だね」  小山内先輩が目を輝かせる。先輩のテンションは結局、最後まで上がりっぱなしだった。3人で、観覧車に向かって歩く。明里たちと同じように、最後に観覧車に乗って帰ろうとするお客さんが多いのか、家族づれやカップルなどが、小魚の群れのように観覧車を目指して歩いていた。観覧車は遊園地の東側にあったので、太陽を背にして歩く。観覧車はライトアップを初めていて、緑や青、赤に光っていた。 「こんなに人がいたんだね」 「ね。休日にしては空いていたように思ったけど」  少し先を急いで歩いている小山内先輩を見ながら、明里は奏多に話しかける。小山内先輩は先ほどからホップステップをしていて、まるで子どもを連れて歩く夫婦のようだねと笑い合った。 それを見て、 「なになに?」 と言った先輩が面白くて、また二人で笑い出してしまった。  観覧車の下には人が溜まっていて、列ができていた。それとなく後方に並ぼうとすると、小山内先輩が意外すぎる一言を放った。 「二人で乗ってきなよ」 「は?」 と明里は思わず声を漏らした。先ほどまであれほど楽しそうにしてたのに、なんで。そう言おうとして奏多の方を見ると、先ほどまでの笑顔はどこへやら、青い顔をしていた。 「先輩、あの」 奏多が必死そうに抵抗するが、こういう時の先輩は引かない。 「とにかく、来年からは二人なんだし、二人で行ってきなよ」 と強引に列に並ばせて、本人は列を離れてしまった。  観覧車の下に近づくにつれて、当たり前なのだけれど、改めて大きな建造物だと、明里は思った。駅ビルよりは、もちろん小さい。けれど、この小さな個室に乗り込んで空を横切るだけにしては、いささか大仰ではないかと思う。口数のめっきり少なくなった奏多の方を見ると、何やら不安そうな、不満そうな顔をしていた。お弁当に嫌いなピーマンが入ってた時のような顔。 「そんなに先輩と乗りたかったの?」 「ちが、いや……」 その顔を見た時、あの歌がふと明里の頭の中に浮かんだ。 観覧車 回れよ回れ 想ひ出は 君には一日 我には一世  明里は今日1日、楽しんでいる自分がいることに気がついていた。もしかしたら、無意識のうちに、これまで意識しないようにしていたのかもしれない。でも、やっぱり、奏多はいいなと思う。女子たちの間ではクールで通ってるけど、感動ものの小説を読んだら結構すぐに泣いちゃうところとかあるし、好き嫌いも多いし。でも、私の思っているほどには、彼方は私のことを意識していないのかもしれない。本当にただの友達で、奏多の好きな人は、下から観覧車を見ている、先輩かもしれない。  泣かないぞ、と思うと同時に、涙がこぼれそうになる。もしここで泣いたら、思い出には残るかもしれない。でもそれは、楽しかった思い出としてではなく、ちょっとしたハプニングとして。奏多の心のアルバムには、泣かれちゃった、困ったななんて注釈がつくかもしれない。それは、絶対に嫌だ。明里はなんとか堪える。奏多はこちらを気に掛ける様子もない。ついに先頭になって、係の人と目が合う。この人は、1日に何組のカップルを見送るのだろう、と関係ないことを思うように意識する。 「足元、気をつけてくださいねー」 という案内に従って、ゴンドラに飛び乗る。先に乗って手を差し出そうとして、奏多が掴んでくれなかったらやだな、と思ってやめる。そう思う自分も、嫌になる。明里と奏多は対角線に座った。  ドアがバタン、と閉まると、ゴンドラ内のBGMがやたらと大きく聞こえた。それ以外は静かで、静かに空を登っていく。沈黙に耐えかねて口を開いたのは、明里の方だった。 「高いね。高校見えるかな」 「どうかな」 「前に友達が、見えたって言ってたんだよね」 「じゃあ見えるかもね」 そっけない。 「観覧車ってさ、悲しいよね」 着地点がわからないまま、明里は頭に浮かんだ言葉を口に出てくるのを止めることができない。 「ゴンドラは、昇って、あとは落ちていくだけじゃない。昇って景色が見えてよかったねと思える時間は一瞬で、そこからはもう悲しいだけじゃん」 「それは」 「それならさ、乗らない方が良かったかもって思ったことない? 今が最高と思える瞬間があったとして、その思い出を一生抱えながら、その輝きがだんだんとなくなっていくなんて」 耐えられない、と言葉を続けることができなかった。こんなの、楽しい思い出になるはずがない。それでも、もしかしたら何も思い出に残らないよりもいいかもしれない。奏多の心に、今日という日の記憶を確かに刻んでおくことができるのであれば、どんな惨めになっても救われるかもしれない。そんな思いが頭の中に渦巻いて、結局黙ってしまった。寂しげなオルゴールの音色と共に、二人を乗せて、小さなゴンドラは夜の海を渡っていく。 いよいよ地上が見えてきて、星空のクルーズが終わりを迎える前に、ようやく奏多が口を開いた。 「ありがとう」 「何が?」 明里はつっけんどんな口調になるのを感じた。ここでその言葉は、ずるい。何も言えなくなってしまって、明里は精一杯の強がりで 「じゃあ私も」 と返した。明里は自分が笑っているのか、泣いているのかわからなかった。  また案内のお姉さんに迎えられて、地上へ戻ってくる。なぜか足元がおぼつかず、ふわふわとなっている。奏多も同じようにバランス感覚をなくしたように、真っ直ぐに歩けないような振る舞いを見せた。地球に帰還した宇宙飛行士た重力を懐かしむように、ふらふらと歩く。奏多と目があって、また笑った。少し寂しさが引っ込んで、またやってきた。この笑いは、観覧車に乗る前のそれと同じものだろうか。何かが、決定的にダメになってはしないだろうか。ネガティブになりそうな頭の中のモヤを必死に取り払おうとする。先輩がスキップでやってきて、笑い合っている私たちをみた。状況が飲み込めない先輩を見て、また私たちは笑った。   ***  それからの1週間は、矢のように過ぎた。考えることが多過ぎて、明里は目を回しそうだった。テストのこと、あの夜のこと、短歌のこと、それに奏多と小山内先輩のこと。ぐるぐると頭の中を渦巻いては、かすみのようにふっと消える。もやもや、イライラ。そうしているうちに、それらは明里の中で1つになっていった。とにかく、今は短歌の解釈だ。それ以外を考えないようにして、でもやっぱり頭の中にチラついて、それを払い退けながら必死に考えた。それにはやっぱり奏多のこともあったけれど、小山内先輩を渡したくないという思いもあったかもしれない。あれだけ憧れた先輩なのだ。奏多なんかに独り占めさせてたまるか。先輩は、奏多に譲ろう。でも、先輩が残してくれた文歌部は、私がもらう。それでいいはずだと思わずには、やっていけそうもなかった。先輩に、選んでもらおう。小山内先輩は、採点の基準をなんて言ってたっけ。 「面白い解釈、か」 頭に思い浮かぶよりも先に、言葉が口をついて出た。面白い、というのはどういう意味だろう。少なくとも、通りいっぺんの、という意味ではないはずだ。もっと奇抜で。いや、違う。奇抜で自由な、そう、自由な解釈。私だからこそ思いつくような、あの夜を奏多と過ごしたからわかるような。 「観覧車 回れよ回れ 想ひ出は 君には一日 我には一世」  もうすっかり暗記してしまったその歌を口ずさむ。奏多も言っていたけれど、やはり回れよ回れ、の部分が難しい。なぜ、そうなのか。そうでなければならなかったのか。他に、奏多はなんて言ってたっけ。  次の瞬間、明里の頭の中で、点と点が繋がる音がした。いや、しかし。これはあまりにも突拍子もない。でも、もしそうなら確かに面白いかもしれない。そして、少なくとも奏多には絶対に思いつかないもののはずだ。そう思い、読み手の栗原京子のプロフィールを調べ始める。思い通りの、いや、それ以上の結果に思わず顔がニヤける。これはもらった。明里は心の中で小さくガッツポーズをした。 *** 「おーっす」 という声と共に地学準備室のドアが開いて、奏多が入ってくる。明里は居住まいを正す。この準備期間中、やれるだけのことはやった。奏多と目が合う。最近はお互い、家や図書室で作業をすることが多く、あまり会話をすることはなかった。外部の人から見れば単なる部活動の部長決めだけれども、私と奏多にとってはなかなかない対決の機会なのだ。  地学準備室には、微かにセミの声が届いていた。もう、空の色も雲の形もすっかり夏になっていて、梅雨明けまでは秒読みだった。電気を消した準備室には、妙な緊張感が漂っている。その緊張感をぶち壊すようにして、部長がゆるっと 「じゃあ、第… 何回だっけ?まあいいや。文歌部の次期部長決め対決を開始したいと思います〜」 とどこかのレポーターみたいな口調で宣言した。マイクを持つポーズでカメラ目線をキメる。実際にはカメラなんて実際にはどこにもないんだけれど。 「まずはルール説明です。お題はこの歌の解釈です」 ホワイトボードに書かれた歌を指差しながら、小山内先輩は続ける。 「勝敗は、どちらの方が面白かったかで決めたいと思います。審判は私、小山内紫が務めさせていただきます。よろしくお願いします」 めんどくさくなったのか、途中からやや投げやりな先輩は、口調をもとに戻して本題に移る。 「では、明里、奏多。どちらからやる?」 少しの沈黙の後、明里が手をあげた。 「じゃあ、私から」 先手をもらったのは、特に何か考えがあるわけではなかった。明里はホワイトボードの前に立ち、小山内先輩は先ほどまで明里が座っていた横の席に座った。 「では、始めたいと思います」 そう言って、一呼吸おく。そしてゆっくりと、この3週間、準備して調べて、考えてきたことを語り始めた。 「まず、解釈のルールについて確認しておきます。先輩は先ほど言いませんでしたが、大事なことが一つありましたよね」 小山内先輩は、あ、という顔をして答える。 「恋愛の歌で進めてっていうの、忘れてた」 「そうです。恋愛の歌という前提がありました。これに則ると、この歌には少しおかしな言葉が含まれているのがわかると思います」 奏多の方を見る。言わんとしていることが伝わったらしい。 「回れよ回れ、の部分かな」 「そう。恋愛の歌で、これはよくわからなかった。だって、思い出を『君には一日 我には一世』っていうくらいなら、回らず止まれって思う気がしたから」 私は、回らずにいてほしいと思った、とは言わなかった。 「不自然というほどではないし、正直、おかしくはないと思う。例えば、この『観覧車』が『コーヒーカップ』や『メリーゴーランド』だったとしたら、引っかかりもしなかったと思うけど。でも、今回は面白い解釈を、ということだったから、ここを出発点として考えてみました。そして、私の解釈は」 少し緊張して、奏多と小山内先輩を交互に見る。奇抜すぎないだろうか、間違ってないだろうか。でも、もうここまできたら言うしかない。 「この歌は、相対性理論について言及してるんじゃないかな」 ***  グラウンドからは、セミの声と、野球部がノックをする音だけが聞こえている。沈黙を破ったのは、小山内先輩だった。 「相対性理論?アインシュタインの?」 「そうです」 「全くよくわからないけれど、なんか面白そう。説明してもらえる?」 「もちろんです」 もうやるしかないと決めた明里は、順を追って説明する。 「まずは相対性理論を簡単に説明します。相対性理論はアインシュタインが発表した考えで、簡単に言えば『時間と空間は独立的なものではなく、相対的なものであるということ』を証明したと言えます」 「どういうこと?」 と先輩が首を傾げる。奏多も不思議そうな顔をしていた。 「つまり、簡単に言えば、ある人と別の人との時間は異なることがある、ということです。例えば、同じ時間でも、Aさんにとっては1秒、Bさんにとっては1日に感じられることがある、ということなの」 事実としては、厳密な意味での「同じ時間」という定義は難しい。時間が異なるのだから、どちらからみて計測をするか、ということが関係してくるからだ。けど、大意は外していないはずだ、と明里は考えていた。 「それって」 奏多が目を丸くする。明里の意図していることが伝わったのだろう。 「そう、ここが後半部分と一致してくる。つまり、君には一日、我には一夜というのは」 そこで明里は少し間をとる。そして、また奏多と先輩を交互に見つめながら 「実際にそういう時間のずれがあったっていうことだね」 と言った。  奏多と小山内先輩は、納得がいったような、いかないような顔をしている。でもそれは、明里の想定内だった。明里自身も、最初はまったく得心がいかなかったし、さまざまな本や文献を調べてもなお説明が間違っているかもしれない。でも、明里の説を裏付ける根拠はいくつも見つかった。 「例えば、相対性理論において、速度が大きければ大きいほど、時間のずれ、つまり君と私の時間の感じ方の違いは大きくなる。ここから導き出される結論は1つ。それは、この解釈では君と私はどちらかがゴンドラに乗っていないことになる」 この解釈は、奏多と小山内先輩を見て思いついたものだった。観覧車に2人で乗るでもなく 、観覧車を2人で外から見るのでもなく、1人しか観覧車に乗っていない。 「相対性理論においては、静止している状態では、動いている状態と比べて時間が速く進むと言われています。例えば、双子の兄がロケットに乗ってほぼ光の速さで宇宙旅行をしてきたら、地球に戻ってきた時は弟の方が歳をとっていることになります。先ほどの歌で言えば、だから、地球に残っていた、観覧車に乗っていないのは『私』の方です」 明里はここでまた時間をとる。どこまで説明をすれば良いのだろう。小山内先輩と奏多の顔を見る。2人とも、話についてこれている様子だ。少しづつ話を具体的にしていきながら、解釈を広げていく。 「今までの部分から、必然的に導き出されるのは、第3者の存在です。つまり」 「君と観覧車に乗っている人、だね」 今度は小山内先輩が指摘をする。ちゃんと伝っているみたいだ。 「そうです。私は地上にいて、私の想い人は別の人と、観覧車に乗っている。ゴンドラは夜の空を飛ぶ宇宙船で、私と彼の間には時間のずれがある。観覧車が速く回ることによって時間のずれは大きくなっていき、君には1日であって、私には一生というほどの時間がずれる。実際には光速に近づかないと、時間のズレなんてほとんどありませんから」 ほう、と息を吐いた。難しいところはこれで説明し終えたはずだ。時計を見ると、始まってからゆうに30分を経過していた。こういう時の時間はあっという間に過ぎる。退屈な授業はびっくりするほど長いのに。これも、相対性理論の効果なのだろうか。 「まとめると、こうなります。読み手は、観覧車を外から見ている女性。ゴンドラに乗り込んだ男性と女性をみて、観覧車が速く、速く回ってほしいと願っている。そうすれば、相対性理論的には『君には一日 我には一世』になります。その理由としては、例えばですけど、自分が好きな人が、誰かと恋仲になってほしくなかったのではないでしょうか」 「ほう?」 と小山内先輩が興味深そうにメガネを持ち上げた。 「その日、観覧車の中にいる2人は、告白をして、おそらくカップルになる。それを、外から見ている読み手の主人公は薄々、わかっている。だから、そうなる前に、今の関係を、ずっと続けていたい。そういう歌なんじゃないかって」 それは、勝手な解釈だったし、最初はどうしてこんな読み方ができたのかわからなかった。でも、明里は今は気がついていた。これは、自分の気持ちだ。奏多と小山内先輩の方を見ながら、こうまとめた。 「だからこの歌は、悲しい歌なんです」 二人とも、なんとも言えない表情で固まっていた。 数分、いや、実際には数十秒だったかもしれない。一人でうんうん言っていた小山内先輩が口を開いた。 「一つ、質問いいかな?」 「はい、どうぞ」 「こういうルールに設定した私が言うのも何なんだけどさ、相対性理論?はあまりにも意外すぎない?どうやって思いついたの?」 「ヒントはいろんなところにありました。観覧車に乗ったときに、空を飛んでると言うよりも、何か乗り物に乗っている風だなって感じたんです。それに、ゴンドラっていうのも船ですよね。そこから宇宙船とかの方向に発想を広げられないかなって」 「なるほどね」 小山内先輩は納得したように頷く。今度は、奏多が口を開いた。 「意地悪な聞き方をするけど、今までは、その、相対性理論?が当てはまる理由を聞いたけれど、明里がそれだ!って思った理由はあるの?」 明里はちょっと考えて、スマホを取り出して先輩と奏多の方に向ける。 「まず、作者のプロフィールを検索してみた。そしたら、この作者、京都大学の理学部出身だったの。詩人なのにって意外に思ったけれど、これならその説も悪くないかもって。それから」 とスマホをポケットにしまって、今度はホワイトボードに書いてある、詩集のタイトルを指差す。そのタイトルは、『水惑星』。明里がそれに気づいた時は、出来過ぎだと思った。 「これ、気が付かなかった?」 明里はさも最初からわかっていたかのように、得意げに、ニヤッとしながら言った。 *** 「やられた〜」 奏多の叫び声が地学準備室に響く。これから自分の番なのに、そんなことを言ってしまっていいのだろうか。そういうところが奏多らしいと明里は思ったけれど。 「じゃあ、次は奏多の番だね」 そう言って、今度は奏多がホワイトボードの前に立った。じゃあ、と奏多が言った瞬間、誰かの携帯が鳴った。全員で顔を見合わせる。小山内先輩がカバンから携帯を取り出して、確認する。 「あちゃ、塾の時間だ」 「すみません、なんか長くなってしまって」 気づけば、すでに始まってから1時間以上が経過していた。複雑な説明だったとはいえ、もう少し整理してくればよかったと明里は反省した。太陽は傾きつつあり、地学準備室にも西日が差し込んでいる。 「ちょっと一瞬抜けるけど、続けておいて」 「はーい」 奏多は生返事をするが、明里は勝負のことが気になって聞いた。 「判定は?」 「本人たちでテキトーに決めておいて〜」 「テキトーにって、私たちでですか?」 返事も聞かないまま、バタバタと教室を後にする。テキトーというのは、適当にということなのだろうけれど、先輩が言うとなんだか軽く感じる。先輩が出て行ってから少しして、ホワイトボードの前で立っている奏多がようやく口を開いた。 「じゃあ、始めるけど」 「うん」 いつも2,3人で使っている準備室が、今は何やら広く感じる。じゃあ、と言って奏多は説明を始める。 「俺も、着目した点は、明里と同じ。つまり、『回れよ回れ』の部分。これは、話したっけ?」 「うん、ちょっと前にこの話になった。だから私もその部分に注目したんだし」 「明里の言ってた通り、ここが大事なポイントじゃないかなって思ってた。でも、正直に言えば、大体俺はこの歌を見た時から、ちょっとこうじゃないかなと思ってたんだ」 「どゆこと?」 「つまり、パッと第一印象でこうじゃないかなって思ってたってこと。でも、あんまり誰も言わないから、意外とみんなこう思わないのかもなって思った」 つまり、私がウンウン唸って3週間も考えていたというのに、奏多はぱっと見の印象で歌の解釈がわかっていたということだろうか。明里は煽られたような思いがして、少しイラッとした。それがわかったのか、奏多が慌てて注釈めいたことを言う。 「いや、それ以外にも色々考えたんだ。例えば、回れとか、観覧車とかが仏教的な輪廻とかけられていて、巡り巡って君に逢いたい、みたいな」 「何その重そうな歌」 明里は思わず笑ってしまった。奏多はガタイがいいのに、こういう発想がどことなく女性的だ、と思う。 「でも、やっぱり自分らしい解釈の方がいいと思って」 そう言って、一呼吸置いた。間をとっているというより、躊躇っている感じだ。 「この歌は、その」 そう言ってまた、奏多は明里をみた。明里はどうしたのか聞こうかと思ったが、奏多が言い出すまで待つことにした。 「高所恐怖症の人が読んだんだよ」 *** 先ほどとは逆に、今度は明里が驚く番だった。 「は?」 「だから、高所恐怖症だったんだって」 明里は、目をつぶって色々考える。確かに、歌の内容に合っている気もしなくはない。というか、明里の説よりもよっぽどストレートかもしれない。 「なるほど、じゃあ『回れ回れ』っていうのは」 「そう、早く終わってほしいからっていうこと。高いところは、怖いからね」 「じゃあ、『君には一日 我には一世』の部分は」 「高いところが怖いって少し恥ずかしいじゃん? それが好きな人の前ならなおさらだよ。相手に気づかれなかったら、相手の記憶には残らないけど、自分は一生覚えてるよ」 「そんなもんかな」 「俺は忘れないよ」 奏多と目が合う。明里は急に顔が赤くなるのを感じた。そして、全てが線でつながったような感覚を感じた。 「もしかして、奏多」 奏多は恥ずかしそうに笑った。 「そう、俺は高いところが苦手なんだ」 「じゃあ、遊園地で変な顔してたのも?」 「やっぱり、変な顔してた?そう、あんな高いところをゆらゆら揺れるゴンドラに乗って上がるのなんて、やっぱり無理だったんだよ」 「変だなとは思ってたけど」 まさか、高所恐怖症だったとは。 「もしかして、小山内先輩がさっき変なタイミングで出てったのって……」 奏多が恥ずかしそうに、また頭をかいた。あんなところで携帯電話がなるのはおかしいと思っていた。そもそも、下鶴間高校では携帯電話は黙認されているだけで、全面OKという訳ではないのだ。 「バレてたか。そう、恥ずかしいから出てってもらった。まぁ、明里が説明をしてる時点であんまり勝ち目はないと思ってたし」 どうやら、奏多は小山内先輩にこっそりメッセージを送っていたらしい。明里は勝負のことをすっかり忘れていた。それよりも、明里は遊園地での奏多の行動を一つ一つ確かめるように思い出していた。 「ジェットコースターに乗れたのは、眼鏡を外してたからなんだね」 「そう、外しちゃえば見えないからあんまり怖くないんだ。それに、ジェットコースターで怖がるのは普通のことだし」 考えれば考えるほど、確かに辻褄は合う。 「じゃあ、小山内先輩は事前に知ってたんだ」 「そう。あの日、明里が準備室に来る前に遊園地に行こうって言われて、高いところは怖いからって観覧車に乗るのは嫌だって言ってたんだよね。その時にはもうぼんやりとあの歌の解釈が出来上がってたし。俺は下で待ってますって言ったんだけど」 奏多が苦い笑い方をした。 「直前になって、やっぱり乗りなよって言われちゃってさ。最後だから、後悔するかもだからって」 「全く、あの先輩は」 明里はそう思うと同時に、なんだか胸のモヤモヤが晴れていくような気がした。 「奏多は、てっきり私と観覧車に乗りたくないんだと思ってた」 「なんで?」 「だっててっきり、小山内先輩といい関係になってると思ってたから」 奏多が黙った。そして一瞬間をおいて、笑った。 「ハハハ。先輩と俺が付き合ってるから、明里と観覧車に乗りたくないってこと?ないない。だって、高いところ苦手な俺の意見を無視して観覧車乗せるような先輩だよ?」 「そうかもね」 明里はほっとしたような、どこか煮え切らないような感情に襲われる。これはなんだろう。 「じゃ、帰りますか」 奏多はそう言って、そそくさとバックを手に持った。 窓の外を見ると、日が暮れて、西日が地学準備室をオレンジ色に照らしていた。運動部の声はもう聞こえなくなっていて、替わりにセミの合唱が聞こえる。明里は何か後一つ、わからないことがあるような気がして、奏多の方を見る。先ほどの会話に、どこかおかしなところはなかっただろうか。 「あの、さ」 明里は奏多の方を見ながら、考えをまとめるようにして喋る。 「小山内先輩には、恥ずかしいから出てってもらったって、奏多は言ったじゃない?」 「うん」 「でも、小山内先輩は高所恐怖症のこと、知ってたんでしょ?」 「うん」 普段は口数の多い奏多が、珍しく頷くだけだ。 「なんで、先輩に出てってもらったの?」 「うん」 とそこで会話が止まって、また明里と奏多の目があった。もう一回、奏多が 「うん」 と言って、恥ずかしそうに笑った。 「あの、さ」 「はい」 「歌の解釈だけど、言ったでしょ」 「何を?」 奏多の顔は西日に照らされて紅い。もしかしたら、私の顔も紅くなっているかもしれない。 「明里と一緒に乗ったからわかったって」 「うん」 「あの時、言おうと思ったけれど、勝負の最中はフェアじゃないと思ったし、それに…」 奏多が言いたいことは、明里にもわかった。だって、この3週間ずっと、恋愛の歌のことを考えていたのだ。それに明里はこの2年間、ずっと奏多のことを見てきたのだ。 「ねぇ、奏多」 明里は言った。 「またさ、今度、観覧車に乗りに行こうよ。2人が、一生の思い出に残るように。1回だけじゃなくて、何回も、何回も。今年だけじゃなくて、来年も、再来年も、その先も」 奏多がゆっくりと頷いた。お互い、ヘヘッと笑った。 ***  伸びすぎた前髪はうっとおしいけれど、切ったらまた変になりそうでそのまま放置している。なんで髪って切ったすぐ後は変な感じになるんだろう。それならいっそこのまま伸ばし続けてしまおうか、と思う。でも、長かったら長かったでうっとおしいので、受験勉強が本格的に始まる夏休みの前までには切ってしまわないと。  私立下鶴間高校は、自称進学校ということもあって、高校3年生の夏休みまでには大学受験で扱うような一通りの基礎の学習は終わる。 「小山内先輩がちょっと暇そうだったのも、わかるかも」 と明里は独りごちた。 「おーっす」 と奏多が地学準備室のドアを開ける。 「遅い! 昼休みは後20分しかないじゃない」 「ごめんって。鍋センに呼び出されてて」 鍋センというのは、古典の先生で、確か奏多の担任の先生だったはずだ。その先生に呼び出されていたということは、進路のことだろうか。 「それより、歌、決めようぜ」  遅れといてその言種はなんだと思わなくはないけれど、貴重な時間を歪み合いに浪費したくはなくて、明里も話を合わせる。 「去年の観覧車のは、どうやって決めたんだろ。小山内先輩に聞いておけばよかった」 「え?聞いてないの?なんか部長に伝わる伝統的な決め方とかじゃないんだ?」 「小山内先輩は、『そこらへん、テキトーに決めといて』だって」 「先輩らしいや」 明里と奏多は声をあげて笑った。 「今、2年生って何人だっけ?」 奏多が真面目な顔をして聞いてくる。 「部員はいちおう5人。でも、1人は幽霊部員だし、穂乃果は兼部してるから、部長候補は3人ね」 「じゃあ、三角関係の歌にしよう」 ちょっとしない間に、奏多のテキトーな感じが小山内先輩に似てきたような気がする。 「2人で決めてもあんまり進む気がしないし、奏多がいいなら私が決めちゃうけど」 「オッケー。でも一つ条件を出すなら、恋愛の歌がいいかな」 やっぱり楽しんでる、と明里は思ったけれど、それには明里も賛成だったので黙っておく。 「それと、忘れないでよ、来週」 「あー、はいはい」 昨年の部長決めから1年間、遊園地の年間パスポートを買って、ほぼ2ヶ月に1回のペースで遊園地に足を運んでいた。そろそろ奏多の高所恐怖症も克服し始めたみたいだった。 「やっぱり、この歌がいいかもね」 と言いながら、明里はノートに候補として「観覧車」とメモをした。 開け放っている窓から、明里は微かに夏の匂いを感じた。 <了>
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