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別れ
落下の途中、「つらいんだぜ?」というやたらと低くて渋い、男性の声を耳にしたように思う。
ぼくはいちど頭まで川につかり、すぐに水面を割って首を出した。川の流れが早いせいか、もう三メートルばかり流されていた。
「今の声、お前か」
セサミは橋の上に骨つき肉を置くと、朗々とした声を発した。
「いかにも。世話になったあんたを捨てるのは心苦しい」
犬が喋れることに、驚いている場合ではなかった。川は思いのほか深く、つま先が底に届かない。ぼくは遠ざかっていくセサミに訴えた。
「だったら、助けてくれ」
「悪いが、出来ない。将来生まれる俺の子犬や孫犬の暮らしを考えると、いい物件を探さないといけないんだ」
みるみるうちに橋は遠ざかり、セサミはピーナツほどの大きさとなった。
「あんた、悪い人間じゃなかったよ。だけどケチは直した方がいい」
セサミの叫びは最後に長く尾を引いて、遠吠えとなった。
ぼくは水の冷たさを忘れた。セサミの最後のひと言は、一年前に聞いた彼女の別れ際の言葉とまったく同じだった。精神的ショックに打ちのめされて、ぼくは水中に没した。
数時間後、ぼくは橋の落下地点に戻った。そこに犬はもういなくて、肉のついていない骨だけが、ぽつんと置かれていた。
(了)
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