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水曜の夜にさよならを
改札を抜けると、スマートフォンに着信が入った。
『着いた。先に入ってる』
メッセージを送ってきたのは、地元の居酒屋で待ち合わせをしている樹だ。中学三年の頃通っていた学習塾で知り合ってから、もう十年の付き合いになる。
『わたしも走ればあと三分』
そう送れば、樹は輪切りレモンがあふれるほど入った、強炭酸のレモンサワーを注文しておいてくれる。仕事上がりのはじめの一杯の、爽やかな喉ごしを想像して、歩調が速くなる。
毎月第一、第三水曜日の夜は『ねこの会』の集まりがある。
はじまりは中学三年の夏休み。夏期講習に行こうとして通りかかった蝉しぐれの公園で、入り口に置かれたダンボール箱が暴れているのを見つけた。その中には、しま模様の仔猫が六匹も入っていた。
真夏の公園で放置したら、干からびて死んでしまうと、塾までダンボール箱を運び、先生に怒られながらもらい手を探した。そのときに仔猫を引き受けてくれた五人の塾生と、水曜日はそれぞれが引き取った猫について、報告をする日にしようと約束をした。
わたしは水曜日が大好きだ。学生の頃は遊んだり、ときには勉強を教え合ったりした。二十歳を過ぎるとそれが飲み会になった。大人になっても関係は続いていくものだと思っていたが、就職して一年も経たない間に、メンバーがぱらり、ぱらりと抜けていった。引っ越し、結婚、理由はいろいろ。六人組だったわたしたちも、今は三人だ。
暖簾をくぐって居酒屋に入ると、いちばん奥のテーブル席に、樹の背中が見えた。ビールジョッキと一緒に、レモンサワーが置かれている。さすが樹だ。何も言わなくても、ちゃんとわかってくれている。
「直哉、まだ来てないんだ?」
声をかけると樹は振り返った。湿気にも負けない真っ直ぐな髪。涼しげな一重の目。羨ましくなるくらいきれいな肌だけれど、残業続きか、目の下にはくまができている。
「美(み)晴(はる)には連絡いってないんだ? 出張でしばらくこっちにいないから、そのうち顔をだす、って言ってたけど」
「それって基本欠席ってこと? この前は大学の友だちと飲み、その前は仕事の付き合いの飲み、あとなんだっけ。ずっと来てないし、もうクビだよ」
突き放すように言って、わたしは樹の向かいに腰を下ろす。
「直哉も色々忙しいんでしょ」
「最近、いっつもわたしと樹だけ。寂しくない?」
「まあねえ」
同調はしてくれるが、樹は苦笑いだ。
わたしは泡の消えかけているビールジョッキに、レモンサワーのグラスをぶつけた。口元にグラスを運ぶと、鼻先を越えてまつげにまで炭酸が弾けて、目を瞑る。蒸し暑い日の憂鬱も、この一口で飛んでいく。
「ねえそういえば、モナカの脚はどうだった?」
ずっと気にかかっていた、樹の猫のことを訊いてみた。二週間前「仕事から帰ったら後ろ足を引きずっていたから、病院に連れて行く」と言っていた。何日かして樹にメッセーを送ったが返事がなかったから、今日会ったらまず訊こうと思っていたのだ。
「捻挫だった。もう治ってるけどね」
「骨折だったらどうしようかと思った。とりあえずよかったねえ」
「モナカももう十歳だもんな。まだ元気とはいえ、これからは少し気をつけてやらないと」
「うちのムギなんて、いまだに階段かけずり回ってどたばたやってるのになあ。兄弟猫なのになんでこんなに違うんだろ」
「やっぱり飼い主に似るんだな」
「はい?」
「それで、美晴は何食べたい?」
樹はメニューを開いて、わたしに押しつけてきた。反論しようとしたのに、食事の写真を見た瞬間、胃袋がぐるる、と情けない音を立てた。
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