水曜の夜にさよならを

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 自宅のドアを開けると、母が驚いたようすで玄関まで来た。 「忘れ物でもした? 部屋からとってこようか」 「ちがう、帰ってきたの」 「どうしたの、何かあった?」 「なんでもなーい」  わたしはブーツを脱いでそのまま洗面所に向かった。ヘアバンドで前髪を上げて、鏡の前に座る。肌の調子が整ってから、メイクが崩れにくくなった。全部樹のためだったのに、喜ばれるどころかこじれさせるばかりだ。顔色が明るく見えるためのチークも、目元のハイライトももういらない。クレンジングでメイクを落としていると、いつの間に入り込んだのか、ムギが足元にすり寄ってきた。  全部すっかり洗い流してヘアバンドを外したとき、洗面所の扉がノックされた。 「ねえ美晴、樹くん来たんだけど」 呼びに来たのは母だ。 「もう寝たって言って」 わたしは叫んだが、母はそれを無視して扉を開く。ムギは母の足の間を通って、外に逃げ出した。 「そんな大声じゃ玄関まで聞こえてるわよ。食い逃げするほどお金ないの?」 「ええ?」  何のことかと思いながらタオルで顔を押さえていると、母が居酒屋のレシートを広げた。たしかに払ってないけれど。これは閉じこもったわたしを燻り出す作戦だ。 「樹くん久しぶりに見たけど、ほんとかっこよくなったよねえ。昔は内気少年だったのに」 なぜか耳が熱くなってきて、母の手からレシートをもぎ取った。鞄を掴んで洗面所の外に出る。リビングを通り越すと、玄関で腰をかがめて、脚にじゃれつくムギに構っている樹が見えた。  一体母に何を言ってくれるんだ。文句の一つでも言おうと思ったのに、わたしを見つけて顔を上げた彼の、不安げな表情を見たら、言葉が出てこなくなった。  無言のまま財布を開こうとすると、樹がわたしの腕を掴んだ。 「ちょっと外でない?」 「この顔で? 無理。すっぴんだよ」 「美晴はそのままでもかわいい」  それを聞いて呆然としてしまった。わたしの知っている樹は、そういう冗談を言うやつじゃなかったのだ。 「引かないでくれる? おれもかなり恥ずかしいことを言ってる自覚があるので」  樹は額に手をかざして目元を隠し、俯いた。  微妙な雰囲気のわたしたちの足元で、ムギがひと鳴きした。樹はムギの頭に手を伸ばす。その優しい眼差しに、過去の記憶が蘇ってくる。  中学三年の夏、塾の受付にダンボール箱を置き、声を張り上げていたわたしに、名前も知らない男子が近付いてきた。彼は何も言わずに箱の中に手を入れて、仔猫たちの頭を撫でていた。そのときの優しい目を見て「この人いいなあ」と、彼のことを何も知らないにもかかわらず、心が惹かれたのを思い出す。  ねこの会の仲間、という強い意識が、そういう気持ちをかき消していただけで、わたしは初めから樹のことを、どこか特別に感じていたのかもしれない。 樹は何を考えているのだろう。可愛いと言ったのは、猫に対する気持ちと同じ? それとも。 「ねえ、外ってどこに行くの」 「パトロール」  そう言われると断れないことを、樹はよく知っている。わたしたちは家を出て、公園に向かって歩き出した。 「あり得ないと思ってたんだ」  道すがら、樹はぽつりとつぶやいた。 「美晴はずっと、おれのことなんて眼中にないと思ってたんだよ。友だちというより、それ以下の存在。直哉が来られなくなってから、美晴は髪もメイクも構わなくなっていったし」 「それは、ごめん。疲れてたのもあったけれど、油断してたの」 「油断?」 「樹ならどんなわたしでも大丈夫って。あとは、そういう対象として見てもらえてるって、思わなかったっていうか。だっていつもわたしに喋らせてばっかりで、樹って自分のこと何も言わないんだもの、本当は二人でいるのが嫌なのかなって思ってたくらいで」 「自分の話をするよりも、好きな子の話をたくさん聞きたいと思うのは当たり前でしょう」  好きな子、という言葉に反応して、とたんに頬が熱くなっていく。こんなとき、メイクがあれば少しくらいは誤魔化せたかもしれないのに、素肌のままじゃだめだ。あふれ出しそうな嬉しさを隠すこともできない。 「美晴に話したいことが、たくさんあるんだけど」  樹が何か言おうとして足を止めたとき、鞄の中でスマートフォンが二度鳴った。わたしたちは目を見合わせた。  母だろうか。取りだしてみると、直哉からメッセージが連投で送られてきていた。 『なあ、今どんなかんじ? かわいくなったって褒めてもらえた?』 『ちょろかっただろ、樹は昔から美晴のワンピ+ブーツが好物だから(笑)うまくいったんならおまえ、俺に肉おごれよ』  画面を覗き込んだ樹が、ああ、と呻くような声を漏らし、額に手を当てた。耳が赤く染まっている。なんだか今日はこれまでに見たことのない樹の姿を、たくさん見ているような気がする。 「借りは早いうちに返しておくか。今から直哉のこと呼んでいい?」  頷くと、樹はわたしのスマートフォンでそのまま返事を打ち始めた。ほんとうは二人でゆっくり話がしたかったが仕方ない。  公園に寄ってから、直哉と合流するために駅まで出ることになった。歩いていると、樹の手がわたしの手に触れた。壊れものを扱うみたいにそっと包み込まれて、苦しいくらいに鼓動が速くなる。 「今度の土曜は早い時間に集合しますか。たまにはどこか違う場所でも行ってみない?」  斜め上からうわずった声が落ちてきて、わたしは横顔を見上げた。精一杯なんでもないようすを取り繕った樹を見たら、ばかみたいに緊張しているのはわたしだけじゃなかったのだと、笑みがこみ上げてきてしまった。  深い緑の香りをのせて、風が通り抜ける。頬の熱は依然冷めそうにない。 「じゃあ樹、来週は何時にする?」  大切なものを二度と離さないようにと、わたしは彼の手をぎゅっと握り直した。
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