水曜の夜にさよならを

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 今日もたっぷり二時間、仕事の愚痴に付き合ってもらった。閉店間際に店を出て、わたしたちはほろ酔いのままバス通りを歩き始めた。  店から自宅まではおよそ徒歩十分。学区の境目に住んでいて、小、中学校こそ一緒にならなかったが、わたしと樹の家は歩いて五分くらいの場所にあるから、帰り道はいつも一緒だ。 「あーあ、明日しんどいなあ、また朝からミーティングだよ。早く出社した分は早く上がっていいからって言われても。朝の一時間のつらいこと」 「最近多いね」 「樹の残業よりましだよ。樹って仕事の不満何にも言わないけど、ないの?」 「ドリンク、スナック無料っていう環境があるだけで十分でしょう」 「仕事量考えたら、そんなの当然の権利よ。わたしだったら、退社した後会社に呼びつけられたりしたら、翌日は午後出勤にしろって上司に訴えちゃう。樹もそういうの改革しなきゃ」  熱のこもったわたしの意見に、樹は苦笑する。 「おれには無理かな」 「なんで。わかんないよ? やってみないと」 「ひとりで必死に声を上げてみたところで、その先には仕事上の協力が得られないっていう、絶望が待ってるだけだしね。人間関係に気を遣う方が、仕事よりも疲れる」 「まあねえ、でもわたしは気になるとすぐ言っちゃうからなあ」 「美晴らしい」  わたしは半歩先を歩く、樹の腕を引いた。会の締めくくりは中学三年の夏、猫を六匹拾った公園のパトロールだ。  路地を折れ、ベンチと砂場とブランコしかない、小さな公園に入った。茂みの隙間、ベンチの下、スマートフォンのライトで照らしながら一巡りし、入り口に戻る。 「よし、ダンボールなーし」  お疲れさまでした、とわたしはねぎらいを込めて樹の肩を叩く。 「そうそう捨て猫はいないと思うけどね」 「でも、いるかもしれない。世の中全部の捨て猫は助けられなくても、せめて この場所だけでもわたしたちが守れたらなって。地元だし、できることはやりたいじゃない」 「もし昔みたいに六匹の仔猫を見つけたら?」 「そしたら家の近くにペット可のアパートを借りて、わたしたち二人で管理する。お互い実家暮らしだし、経験として部屋を借りてみるのもいいかもよ」 「マジか」  樹がめずらしく声を立てて笑った。  公園を出て、人気のない住宅街を抜けていく。坂を上りきった、その先でお別れだ。 「いつも送ってくれてありがと。それじゃあね、樹」  また再来週、そう言おうとしたときに「あのさ」と彼がやわらかに言葉を被せてきた。 「今日でもう終わりにしない? ねこの会」 何の冗談かと樹の目を見つめるが、彼は視線を逸らすこともなく、真っ直ぐわたしを見つめ返してくる。 「ねこの会に来られなくなったやつも、みんなちゃんと飼い猫を大事にしてるし。おれもモナカをこの先もずっとかわいがるし。もうそれでいいんじゃない?」 「どうしたの、急にそんな」  何を言ったらいいのかわからなくなって、わたしは口ごもった。 「おれも美晴もこれからもっと忙しくなるし、直哉だってこの先わからないし。どこかで区切りは必要だと思う」  用意された台本を読み上げるように、樹は淡々と言う。 「じゃあ公園のパトロールは?」 「おれが仕事帰りにときどき見ておく。美晴、夜はもう大人しく寝なさい。ここ何ヶ月か、疲れが顔に出ててやばい。忙しいみたいだし、ゆっくり休んで」  もしかしたら樹は、ずっと前から何度も、切り出そうとしていたのだろうか。 「わかったよ。じゃあ今日で解散ね。樹もちゃんと寝るんだよ」  わたしは「おやすみ」と空元気で手を振って、樹に背を向けた。  家に着くと、家族を起こさないようにそっと扉をあけて、二階の自室に上がった。ベッドに倒れ込むと、目のふちに涙が滲んできた。まさか、樹からねこの会を終わりにしようと言われるなんて、思ってもいなかった。モナカの脚について訊いたとき、返事がなかったのも、ねこの会を続けることに疑問があったからだろうか。 「何だったんだろう、十年も会い続けてきたのに」  直哉があまり顔を出せなくなってからも、樹と二人でたくさん話をしてきた。そんな時間を楽しいと思っていたのはわたしだけだったのだろうか。  元々ねこの会は、同じ塾に通っていたというだけの、共通点のない人たちの集まりだった。わたしはスポーツ少女で、直哉は見るたびに違う彼女を連れている女好き、樹は根っからのゲーマーだ。  普通に学校生活を送っていたら、つるむこともなかった友だちと、猫を通じて集まれることが楽しくて、いつの間にか側にいるのが当たり前になって、忘れていたのかもしれない。一人でいつまでも熱くなって、気づいたらみんなと温度差ができていて、自分だけがそれに気づかない。わたしには昔から、少なからずそういうところがあったのだ。  樹はあまり自分の意見を言わない方だ。本当はただずっと、疲れさせていたのかもしれない。
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