愛を知らないあなたに恋をして

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 レトロかわいいワンピースにハイヒール、片手にソーダ水が入ったコップを持って、レンガの道を歩いている私。  少し大き目のジャケットを着た超絶イケメンが向こうから歩いてくる。どこかで見たような。  ああ、私の大好きな映画『愛を知らないあなたに恋をして』に出てくる俳優さんだ。これは夢なのだ。  すると、このあとはこのソーダ水を……。  ヒロインである私は、台本のとおりに、レンガの溝につまづき、手に持ったソーダ水をヒーロー役の俳優さんに思いっきりかけた。  私は、あわててバッグからハンカチを取り出し、ヒーローに差し出す。  そんな私の手を力強く握って、ヒーローは私を自分に引き寄せた。  見つめ合う二人の間に衝撃が走る。  耳を塞ぎたくなるような効果音。 『火事です、火事です』  あれ?  午前二時過ぎ、マンションに大音量で鳴り響く、火災警報の音。 『火事です、火事です』  私は、急いで部屋の外に出た。  テレビで映画を見ながら、寝落ちしてしまっていたらしい。階段を降りながら、コンタクトも眼鏡もしていないことに気づいたが、命最優先、このまま外に避難することにした。  しかし、どの階から火が出たのだろう。視界はぼんやりしているものの、まわりに炎が上がっている様子はないようだし、煙臭くもない。  やっとエントランスに到着。途中、バタバタと足音が聞こえてきて、何人かが私を追い抜いて降りていった。  私は、ぼんやりした視界の中、慣れと勘を頼りに勢いよく走り出した。 『バンッ!』  実際に音が鳴ったのか、それともあまりの衝撃にそう感じただけなのか、ともかく、マンション入口の分厚いガラスのドアに思いきりぶち当たった私は、フラフラと後退りして、仰向けに倒れた。  まさか、閉まっているなんて……。  上半身を起こすと、鼻の奥から、何かが流れ落ちてくるのを感じた。手の甲で拭ってみると、やはり鼻血だった。と同時に、鼻と額に痛みが走る。  「……さしねくてきけね……わ? ゆさはってあった。けね、しんぱいすねで……へば」  背後から近づいてくる、若い男性の声。何を言っているのかは、いまいちわからないが。 「わいは! おめ、なした?」  私に言っているのかもしれないけど、なんて言っているのか。「わいは」って? 「大丈夫?」とかかな。  私は笑って言った。 「全然、大丈夫」  しかし、その彼は、後ろから脇を抱えるようにして私を立ち上がらせてくれた。お風呂にでも入っていたのかな。髪からシャンプーのいい香りがする。  再び滴り落ちてくる鼻血を手で拭う私。 「はなぢふいで」  彼が私の目の前ににゅっと差し出してきたのは『ホテルニュー月野』の名入りタオル。 「わぁ、ありがとうございます」  私は素直にタオルを受け取り、鼻を押さえた。さっきの彼のシャンプーと同じ匂いがする。 『火事です、火事です』 「こっちゃこい」  彼は、私の腕を握ると、ぐいぐいと引っ張って、外に連れ出してくれた。  マンションのすぐ外では、住人たちが、何をするでもなく、ぽつぽつとそれぞれ離れて立っている様子。  私は親切な青年の隣りで、寒さに震えながら、タオルに顔をうずめていた。  すると、青年が私に上着をかけてくれた。 「何からなにまで、ありがとうございます。この御恩は絶対に忘れませんから」  顔を上げて、彼の顔を見ようとしたが、コンタクトも眼鏡もない私には、周囲が暗いこともあって、背が高いということしかわからなかった。  あのあと、すぐに消防車が到着し、火災警報は誤報だったと確認したため、しばらくして部屋に戻ることができた。  結局、最後まであの青年の顔はよくわからず、何階の住人なのかもわからず、私の手元にはヨレヨレの大きなフリースと使い古しのホテルの名入りタオルが残った。  地方から出てきたばかりの倹約家。私の腕を引っ張る力強い大きな手。背の高い優しい青年……。  ともかく、服とタオルを返して、ちゃんとお礼を言いたい。でも顔がわからなくて、どうやって探せばいいのか。 「詩織ちゃんの言ってた男の人って、全然わからない方言しゃべってたんでしょ。いたよ、そういう人」 「え、どこに? このマンションで?」  私は、水が入ったバケツを持って、マンションの掃除のおばさんである半沢さんと、マンションの階段を降りていた。半沢さんは、短大を卒業し、この春から一人暮らしを始めた私を何かと気にかけてくれていて、50代くらいの、お母さんみたいな女性である。  半沢さんは雑巾で階段の手すりを拭きながら、答えた。 「そうそう。階段を掃除してたら、上の方からそういう方言で話す若い男の人の声が聞こえたから、もしかしてと詩織ちゃんの、と思って行ってみたの」 「うん、うん」  私は、期待に満ちた目で半沢さんを見つめた。 「そしたら、いたのよ」 「うん、うん。誰だったの?」 「工藤さんが」 「えぇ?! く、工藤さんて、あの超絶イケメンの?」  工藤さんとは、このマンションに住んでいる、私より少し年上くらいの男性である。  彼は、なんていうか、こういう日常の世界には場違いなほど、完璧な容姿を持っている。初めて彼を見かけたときは、こんな美しい人が現実にいるものかと、心底驚いた。均整のとれた体つき、背が高くて足が長い。きっと180cm以上はあるはずだ。遠目に見てもはっきりとわかる整った顔立ちは、もはや神々しいほどである。 「そう、その工藤さん。でもね、工藤さんを見かけたときは、もう話してなかったんだけどね」 「じゃあ、実際に工藤さんが話してたかどうかはわからないんだ」 「詩織ちゃんが直接聞いてみたら?」 「うーん、でも、工藤さんのイメージじゃないなぁ」  一人暮らし専用マンションで、住人同士の交流もないこのマンションでは、ほかの住人が話しているところをほとんど聞いたことがない。すれ違っても、挨拶すらしない人が多い。  工藤さんも同様で、挨拶もしたことがないので、声を聴いたことがない。それに、以前、マンションの前で女の子に冷たくしているところを見かけたことがある。とても可愛い女の子が、何かプレゼントを渡そうとしていたが、工藤さんは迷惑そうに見ただけで、さっさとマンションに入ってしまったのである。残された女の子は泣いていた。二人がどんな関係なのかわからないが、私に親切にしてくれた青年なら、そんな対応はしないと思う。 「まあ、あの人、無駄にかっこいいからね。イメージじゃないかもしれないけど、ダメもとで聞いたらいいんじゃない。ほかに思い当たる人もいないし」 「うん、そうだね」 「そういえば、これ」  半沢さんは、エプロンの大きなポケットから、DVDを取り出した。私が貸した『愛を知らないあなたに恋をして』である。ジャケットの写真では、夢に出てきた俳優さんが筋肉質のたくましい腕で、本物のヒロインをお姫様抱っこしている。この映画の名シーンのひとつである。 「ロマンス映画って言うの? 面白いね。まだ借りてていい?」 「いいよ。火災警報が鳴った日にテレビでやってたから、録画したしね」 「詩織ちゃん、ほんと好きだね」 「うん。今度、原作の小説も貸そうか。最高だよ」  半沢さんは、「今度ね」と笑って言った。  有力な、そして唯一の情報を半沢さんからいただいたものの、あの工藤さんにどうやって話しかけたらいいのか悩み続けて、数日が立った日だった。  会社が定時で終わり、マンションの最寄り駅で電車を降りて改札を出ると、なんと、前を歩く工藤さんを発見してしまった。  工藤さんは、すぐそこにいる。これ以上、グズグズ確かめずにいたら、いつまで経っても恩人に恩返しができない。  私は、バッグの中を探りつつ、足早に工藤さんに歩み寄った。  工藤さんの背後まで来ると、バッグから取り出したものを差し出して、勇気を振り絞り声をかけた。 「あ、あの、これ、落としませんでしたか?」  工藤さんが振り返る。至近距離で見る工藤さんは、予想をはるかに超えて眩しかった。  工藤さんは、私の顔を見て特に反応はなかったが、なぜか「落とし物」を二度見した。  私は不思議に思って、自分が差し出した「落とし物」に視線を落とした。  我が目を疑った。  美男が美女をお姫様抱っこしている。差し出した物は、私の愛する『愛を知らないあなたに恋をして』の原作本だった。  ロマンス小説を工藤さんが持ってるはずがない。バッグの中のタブレットをつかんだつもりだったのに。 「あれ、違ったかな……」  私はなんとかごまかしながら、本を引っ込めようとした。にこりともしない工藤さんを前に、冷たい対応をされて泣き出した女の子を思い出し、一刻も早く立ち去りたかった。  ところが、工藤さんは、私の手からひょいと本を取り上げた。 「あ、それ」  工藤さんは、本の表紙をじっと見て、言った。 「これって、告白なの? 俺が好きって」 「え?」 「告白自体はよくあることなんだけど、こんなに斬新なのは経験したことがなくて。どう対応したらいいか」 「ち、違います! 違いますから!」  私は恥ずかしさに泣きそうになりながら、全力で否定した。 「じゃあ、なに? 俺の本ではないけど」  信じていないのか、工藤さんは疑うような目で私を見てくる。 「えっと、だから、こういう本が好きそうに見えたので」 「え、俺が?」  笑いだす工藤さん。意外と豪快な笑い方をする。  その後、なんとなく歩き出し、結局、マンションまで、工藤さんと世間話をしながら一緒に帰った。その間、一度も話題が途切れることはなかった。私のことを同じマンションの住人だと知っていたのかもしれない。  ふと気づけば、まったく方言が出てこないし、訛りのない話し方をしている。やはり、工藤さんは助けてくれた青年ではないのだ。なんだ、そっか。無駄にドキドキしちゃった。  工藤さんでないとすれば、誰なんだろう。あとは、どうやって探せばいいのか。半沢さんに頼んで、掲示板に張り紙でもするしかないか。  こんな調子であれこれ考えていたら、帰り道でこけてしまった。  痛む足首をかばいながら歩いて、やっとマンションに到着。  エントランスでは半沢さんが掃除道具を片付けているところだった。 「ただいま。半沢さん、まだ帰らないの?」 「今日は窓磨きに熱中しちゃって。でも、そろそろ帰るよ」  半沢さんは本当に仕事熱心でプロフェッショナルである。この道、30年らしい。 「あら、詩織ちゃん、足、どうしたの?」 「うん、さっき、こけて、ひねっちゃって」 「またなんか妄想でもしてたの? 気をつけないとだめだよ」 「はーい」  私がエレベーターの前まで来て、ボタンを押そうとしたとき、半沢さんがあわてたように大声を出した。 「待った!」  私は驚いて振り向いた。 「詩織ちゃん、怪我してるのに、ごめんねぇ。今日はエレベーターが使えないのよ」  私はエレベーターの表示を見上げた。数字がひとつずつ増えていっている。 「え、でも、動いてるみたいだけど」 「これから、業者さんが点検するんだって。悪いけど、階段使って?」 「うん、わかった」  私は、半沢さんにさよならを言って、ついてないなと思いつつ、階段を上り始めた。  やはり足が痛む。私は手すりに体重を預けながら、一段一段上がっていった。  一階の半分も上がり切らないうちに、上から誰かが足早に降りてくる足音が聞こえてきた。急いでいるのに、エレベーターが使えなくて焦っているのだろうか。  足を止めて顔を上げると、相手も私を見て、足を止めたようだった。  それは、くたっとしたTシャツにハーフパンツ姿の「ちょっとそこまで」スタイルの工藤さんだった。すらっとしているのにがっちりとした肩回り。まっすぐ伸びた長い足。こんな気の抜けた格好でも、どこかの舞台の階段を降りてきているかのように見えるのは、やはり恐ろしいほどのスタイルの良さのなせるわざなのだ。  つい見惚れている私に、工藤さんは会釈をして通り過ぎた。  と思ったら、振り返って言った。 「足、どうかしたの?」 「ちょっと、こけまして」  少し考えた工藤さんは、しゃがんで私に自分の背中を差し出した。 「乗って」  えー、これって、小説やドラマの中ではよくあることだけど、現実にもおこることだったの?  ありがたく背中をお借りするにしても、どういう形で乗ったらよいのか、いくら考えてもわからずに、ただただ工藤さんの広い背中を見つめていた。すると、Tシャツに『いつもみなさまと共に! 明るい信用金庫』とプリントされていることに気づいた。 「信用金庫にお勤めで?」 「え、俺? いや。ああ、このTシャツ。商店街のくじ引きでもらったやつ」 「そうですか……」  工藤さんみたいなイケメンは、Tシャツすらもブランドものしか着ないと思っていた。  私はふと思った。  もらいものの名入りTシャツを普段から着ているなら、ホテルの名入りタオルだって、普通に使っているのではないだろうか。それにこのTシャツのくたくた感は、あのときのフリースのヨレヨレ感に似ている。  やっぱり、あのときの青年は……。 「乗らないの?」  せっかくしゃがみ込んで背を差し出しているのに、いつまでも乗ってこない私にしびれを切らしたのか、工藤さんは立ち上がり、眉間にしわを寄せながら、こちらを向いた。 「あの、聞きたいこと……」  その瞬間、体がふわっと浮き上がった。  一瞬、何が起ったのかわからなかったが、すぐに、私が工藤さんにお姫様抱っこをされていることに気がついた。  自分の体をどう預けたらよいのか、重くて落とされる前に自ら落ちた方がいいのか、私の頭は一気に混乱状態に陥り、手足にめちゃくちゃな指令を送った。 「わ、暴れるなよ。でないと……」  不意に工藤さんの腕の力が抜ける。 「わわっ」  落ちる感覚を味わい、私は、つい工藤さんのたくましい胸にしがみついてしまった。少し汗ばんでいるが、いい匂いがする。  恐るおそる顔を上げると、予想以上に至近距離で工藤さんのいたずらっ子のような笑顔があった。 「あぁ、ありがとうございます!」  私は、ひと言お礼を言うのが精一杯で、すぐに顔をそむけた。 「落ちないように、ちゃんとつかまってて」  物心ついて以降、お姫様抱っこなんて経験したことのなかった私は、緊張して、ひたすら体を縮こませていた。それで私が軽くなったわけではないだろうが、工藤さんは、ひょいひょいと階段を上っていった。  一瞬、階下から私たちを見上げる、半沢さんの、なぜか満足そうな顔が見えた気がした。 「ふふっ」   私は、マンションのエントランスに立てた脚立の上で、昨日のお姫様抱っこを思い出して笑ってしまった。 「思い出し笑い?」  半沢さんが、私に水の入ったバケツと雑巾を渡しながら、おかしそうに言った。  今日は仕事が休みのため、昨日のことを話そうと半沢さんを探して降りてきたところ、エントランスの壁掃除をするというので、手伝いをしているところだった。私は、バケツを受け取り、フックに引っ掛けた。 「だって、まるで『愛を知らないあなたに恋をして』なんだもん」  自分で言って自分で照れてしまった私は、ごまかすように雑巾で壁を力強く拭き始めた。 「ほんと、そのものだった」 「半沢さん、昨日、やっぱり見てた?」  半沢さんは自分のことのようにうれしそうに言った。 「うんうん。ロマンチックだったね。すごく強引で!」 「強引て……」 「あら、照れちゃって」 「でも、昨日工藤さんに助けてもらって、そうじゃないのはわかってるのに、あのとき助けてくれたのも工藤さんだったかもなんて思っちゃった」  有無を言わさず私を抱っこした強引さは、火災警報が鳴る最中、私の手をぐいぐいと引っ張って外に連れて行ってくれた青年を思い出させた。  しかし、昨日は、工藤さんが着ていた信金の名入りTシャツを見て、工藤さんがあのときの青年なんじゃないかと思ってしまったが、決定的に話し言葉が違うのだ。 「もしかして詩織ちゃん、工藤さんのこと、好きになったんじゃないの?」 「え?」 「だから、あのとき助けてくれたのも工藤さんだったらいいなって思うんじゃない?」 「そんなことない! よく知りもしない人を好きになれるわけないよ」  助けてくれたお礼がしたくて青年を探していたはずなのに、かっこいい工藤さんにお姫様抱っこされちゃったら、浮かれて変な願望を持って、バカみたい。そんなだから、あの子に軽い女だって言われるんだ。  私はバケツの水で雑巾をじゃぶじゃぶと洗った。 「よく知りもしないって、そんな。工藤さん、十分かっこいいし、優しいでしょ?」 「バケツの水、汚くなったから替える」  半沢さんの視線を遮るように、私はバケツをフックから外して手に持った。 「あら、工藤さん、こんにちは」  急に半沢さんのおふざけかと思ったら、本当に工藤さんがこちらに向かって歩いてきていた。  工藤さんは、半沢さんにぺこりと頭を下げた。ちょっと不機嫌そうに見える。 「こんにちは」 「おでかけ?」  半沢さんに声をかけられた工藤さんは、脚立のすぐ横で立ち止まった。 「ビール買いに。風呂上がりに飲もうかと思ったら、なくて」  今日も工藤さんは、ヨレヨレTシャツにハーフパンツのラフな格好だ。髪が濡れている。今日のは、どこからもらったTシャツなのか。  私の視線に気づいたのか、工藤さんは、脚立の上の私を見て、会釈をした。昨日と打って変わって、にこりともしない。  あれ、この香り。工藤さんが私に会釈をして髪をかき上げたときに、ふわりと微かに漂ったいい香り。確か、あのときの青年も、こんないい香りだったような。  私は、さりげなく、工藤さんの頭に顔を近づけた。うーん、わからない。もうちょっと、近くに……。 「おっと」 「わぁ」  半沢さんが脚立にぶつかり、工藤さんの髪の香りを嗅ごうと身を乗り出していた私は、バランスを崩してしまった。そして、ちょうど上を向いた工藤さんの頭に、バケツの水をひっくり返してしまった! 「わいは!」  さすがの工藤さんも驚いて叫んだ。そして、顔に滴り落ちてくる水を手でぐいっとぬぐった。お風呂に入ったばかりなのに、工藤さんは、頭からつま先まで、汚れた水でびしょ濡れになってしまった。  私は空っぽになったバケツを抱えながら、思いがけない発見に心が震えていた。  驚いた工藤さんからとっさにでた言葉は、あのときの青年が言った言葉と同じだったのだ! 「あのとき助けてくれた人は、工藤さんだったんだ!」  しかし、工藤さんは特に何も言ってくれない。  絶対に工藤さんだと思って、有頂天になった私は、どうにかして自分の気持ちを伝えたくなり、脚立を降りようとした。  しかし、慌てたせいで、昨日痛めた足首を強くついてしまい、痛さにふらついて、脚立から仰向けに落ちてしまった。 「わっ」  床に叩きつけられると身構えたが、落ちても意外に痛くなかった。  それもそのはず、工藤さんが、受け止めてくれたのだ。  そんな私と工藤さんの横で、半沢さんは、なぜかガッツポーズをした。  工藤さんは、あのときのように、私の両脇を抱えて立たせてくれた。  またもや助けてもらって、申し訳なくも、うれしくて仕方ない私は、工藤さんを振り返って言った。 「火災警報が誤作動したときも、こんな風に……」 「俺じゃない」 「……え?」  工藤さんは怒ったような顔であっさりと否定して、エレベーターに引き返して行ってしまった。  私は、しばらく何も言えずに、エレベーターのドアを見ていた。  そんな私に、半沢さんが心配そうに声をかけた。 「詩織ちゃん、大丈夫?」 「うん、大丈夫」  私は床にしゃがみこみ、ぶちまけたバケツの水を雑巾で拭き始めた。 「おばちゃんがやるから、詩織ちゃんは部屋に戻っていいよ」 「言葉も同じだし、絶対工藤さんだと思うんだけど。あっさり否定されちゃった。迷惑かけられすぎて、これ以上関わりたくないっていうことかな」  私はそう言いながら、少しこみあげてくるものを感じた。自分で思っている以上に落ち込んでいるのかもしれない。 「おばちゃんがやりすぎた! ごめんね!」  私は驚いて、半沢さんを見た。 「どうして半沢さんが謝るの? 関係ないでしょ」 「それがあるのよ」  半沢さんが申し訳なさそうに語ったところによると、すべて、私と工藤さんをくっつけようとして、半沢さんが仕組んだことなのだそうだ!  私が半沢さんと仲がいいように、実は工藤さんも半沢さんと親しくしていたらしい。工藤さん狙いでマンションに押しかけてきた女ストーカーを半沢さんが追い払ってから、青森出身の工藤さんは、半沢さんを東京の母として慕っているのだそうだ。半沢さんは、自分の子供のように可愛がっている私と工藤さんが付き合えば、絶対に幸せになれると思ったというのだ。 「仕組んだって、じゃあさっき脚立にぶつかったのは、わざとなの?」 「そう。詩織ちゃんがバケツの水を工藤さんにぶちまけるように」 「全部って、あとは?」 「昨日、エレベーターを使わせないで、階段で行かせたでしょ。本当は点検なんてなかったのよ。詩織ちゃんが怪我してるのを見て、ちょっと思いついてね」 「何を?」 「詩織ちゃんが足を引きずって階段を上ってるのを、工藤さんが見たら、絶対助けるだろうと思ったのよ。だから、詩織ちゃんが行ったあとすぐに、急用だって言って、工藤さんを呼び出して」  それで昨日はタイミングよく工藤さんに階段で会ったのか。 「そしたら、なんとお姫様抱っこでしょ。うまく行き過ぎちゃって、今日は調子にのちゃったのよ。ごめんね」 「いいけど。ほかはないんでしょ」 「実は火災警報も」 「えぇ? あれ、誤作動じゃないの?」 「うん、まぁ、ちょっとね。とにかく、詩織ちゃんの好きなロマンス小説の中では、ヒロインが危機に陥ったとき、ヒーローに助けられて、好きになっちゃうでしょ」  火災警報が鳴る中、ドアにぶつかって動けなくなっているところを助けてくれたのは、やっぱり工藤さんで、それも半沢さんが仕組んだことだったの? 「全部、詩織ちゃんに借りたDVDを参考にしたのよ。あれを参考にすれば、きっと二人は恋に落ちると思って」 「どうりで『愛を知らないあなたに恋をして』的な出来事が続くわけだ」  私は半沢さんの行動力に心底驚いた。 「工藤さんが怒っちゃうなんて。本当にごめんね。私があとで工藤さんにちゃんと説明しておくからね」  すっかり落ち込んでしまった半沢さんに、私は、気にしないでほしい、むしろ感謝していると言った。  半沢さんが行動してくれなかったら、私は工藤さんと話すこともなかったし、工藤さんの優しさに触れることもできなかったのだ。 その日のうちに、私は、ヨレヨレのフリースと使い古しの名入りタオルを持って、工藤さんの部屋を訪ねた。  インターホンを押すと、しばらくして、工藤さんが玄関に出てきた。すっかり着替えて、きれいになっている。お風呂も入り直したのだろう。 「なに?」  やっぱり不機嫌そうな工藤さんに、私は気持ちがくじけそうになった。 「あの、さっきは本当にごめんなさい。それに、何度も助けてくれてありがとう。火災警報のときに助けてくれたのも工藤さんだってわかって、すごくうれしかった」 「違うって言っただろ。それに、よく知りもしない男の部屋なんか、気軽に訪ねてくるな」  あれ、さっき私が言った言葉で、嫌味を言ってる? 何が気に障っているのか。  工藤さんがドアを閉めようとしたので、私は、持ってきた服とタオルの上に、『愛を知らないあなたに恋をして』の原作本を置いて差し出した。 「これ、返します」  工藤さんは本を見て冷たく言った。 「俺のじゃないって、言ったよね?」  私は意を決してきっぱりと言った。  「私の、気持ちです」  そして、本と服とタオルを、無理やり工藤さんに押し付けた。  恐るおそる顔を上げると、工藤さんは笑って私を見ていた。
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