雪と檸檬とチョコレート

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時計の針が4時20分を指した。放課後のチャイムが鳴り、下校を促す放送が流れる。いつも通りの放課後。 生徒達が続々と下校する中、菊原 美咲は下駄箱に背を預けて立っていた。美咲の目の前には乗降口の扉があり、大きな窓がついていた。 この季節でなければ外の様子も見えるのだが、今は白く結露し、ぼんやりとしか見えない。しかし、美咲は外が大雪である事を知っている。それが、彼女がここにいる理由なのだから。  冷えた手をポケット入れると、お気に入りのチョコレートが手に触れた。 『ここぞ』という時の為に残しておいた最後の一個だったが、今食べてしまおうか。 そう思った時、クラスの友人に声を掛けられた。 「あれ、美咲じゃん。迎え待ち?」 美咲はそちらを見て、うん、と頷いた。 「良いなぁ。うちの親もこんな雪の日くらい迎えに来いっての。」 「いっそ雪で電車が止まれば、休校になるのにね。」 美咲がそう返すと、都会じゃ有るまいし、と友人は笑った。  美咲の住む町は豪雪地帯で、雪対策は万全だ。多少の雪で電車が止まることはない。互いにそれを知っているから、雪で電車が止まるなど、叶わぬ夢だと笑い合い、じゃあね、と別れた。 友人が開けた扉の隙間から、冷気と雪が入り込む。美咲は咄嗟にマフラーを鼻まで引き上げた。大雪の外気に、学校の暖房など意味をなさない。 それでも、殆どの生徒が帰り、扉が開かれ無くなってくると、室内は少しずつ暖かくなってきた。 時刻は4時25分。 「あと、5分…」 美咲はそう呟いた。それに合わせて白い息が浮かび、消える。 美咲はカバンのポケットから手鏡を出すと、念入りに前髪をチェックする。それと同時に、鏡越しに自分の背後もチラチラと見ていた。  4時30分。もう、そろそろだ。そう思った時、 「今日も迎え待ち?」 菊原さん。と、背後から声を掛けられた。 ドキッと心臓がなった事を悟られないように、平静を装いながら振り返る。 「そっちこそ、今日も自主練?」 元木くん。と返すと、元木 徹也はくしゃりと人懐っこい笑顔を見せた。 「素振りだけ、少し。」 そう彼は言うが、部活の後に、それも下校時刻まで自主練をするのは、大変な事だろうと美咲は思った。更にこの時間になると、元木は必ず昇降口で、キャッチャーミットの手入れをする。 美咲は美咲で、雪の積もっている時期は、同じ場所で母親の迎えを待つ。その為、必然的に元木と会う事が多かった。 「前から思ってたんだけど、なんでここでキャッチャーミットの手入れするの?」 至って普通の質問を投げられ、元木は苦笑いをした。 「野球部の部室には、コンセントがないから。」 そう言ってドライヤーを持って見せた。 あぁ、と美咲は納得した。 ここ数日、元木がミットを手入れする様子を見ていた為、ドライヤーの冷風で乾かす作業がある事を知っていたからだ。 「それに、ここならミットに付いた砂が落ちても問題ない。」 そう言って元木はニヤリと笑い、慣れた手付きでキャッチャーミットにブラシをかけ始めた。ミットに付いた砂がポロポロと落ちる。 この季節にグラウンドは使えない。  それにも関わらず、キャッチャーミットに砂が付いているのは、ピロティーにある小さな砂場スペースにいたからだろう。 吹きさらしで、ほとんど使われないそこは、特に整備もされておらず、快適とは言えなかった筈だ。 美咲は、なるほど、と頷き、気になった事を素直に聞いた。 「コンセントのない部屋って珍しくない?」 元木は、確かに、と、一つ笑い 「もともと一つだった部屋に壁を作って、二部屋にしたらしい。片割れのサッカー部にはコンセントもあるみたいだけど。」 と、説明した。 「付けてもらえば良いのに。」 コンセントくらい、と言う美咲の呑気なアイディアに、元木は困ったように笑いながら、うちは弱小部だからなぁ。と言った。そしてキャッチャーミットの紐の部分を、念入りにブラシをかける。 確かに、以前の野球部は地区予選の一回戦で敗退する事が常だった。更に部員も試合に出られるギリギリの12人程度だったはず。 「…でも、秋の新人戦では、決勝まで行ったよね?」 美咲の言葉に、元木は少し驚いた顔をした。 「知ってたんだ。」 「たまたまね。」 そう美咲は言ったあと、少し迷って言葉を続ける。 「決勝、見に行ったから。」 つい素っ気なく言ってしまい、美咲は後悔した。本当は、感動したとか、準優勝おめでとう、とか、何か気の利いた言葉を言いたかった。 しかし、自分の気持ちにピタリと来る言葉が思い浮かばなかったのだ。 「そっか。恥ずかしい所を見られたな。」 元木はブラシを置き、頭を掻いた。 「そんなことないよ!」 と、間髪入れずに美咲は返す。 弱小野球部が決勝まで勝ち進めたのは、キャプテンである元木のリードや統率力が大きい。それはチームメイトも認めるところだ。しかし美咲は、技術面だけでなく、彼の強い思いと人柄が、チームを動かしたのだと思っている。 それを伝えたくて、美咲は言葉を続ける。 「全然、そんな事なくてー、」 しかし、その後の言葉が出ない。 「そんな事なくて、」その後は何なのだろ う。自分でも分からず、困惑する。 ただ、今目の前で笑っている元木と同一人物とは思えないほど、真剣な表情で白球を受ける彼は、眩しかった。 何とか言葉にしようとしたが、結局、唇だけが空回り、凍ったように動かせなくなった。美咲はそれをマフラーで隠し、泳ぐ視線を昇降口の窓に固定した。 いつの間にか室内の気温が上がったようで、窓の結露は大きな雫に変わっている。 「ありがとう。」 突然黙った美咲に、元木はそう言った。いつもの人懐っこい笑顔で。 それを見た途端、美咲の体温は上がり、唇が解凍されたように動き出す。 「た、たまたまだよ。そう、たまたま、里香が行きたいって言う…」 言うから、と続けようとしたが、元木に遮られる。 「え?!橘さんも来てたの?」 ミットを乾燥させるために千切った新聞紙を、バサバサと落とし、声を上げた。驚きのような、喜びのような。 その声を聞いた途端、美咲は冷静になった。 「そ、そうだよ。里香も見てたんだから。」 「…何か、言ってた?」 「元木くん、格好いいって。」 「まじ?!」 「うそ。」 嘘かよー!!と崩れ落ちる元木を見て笑う。 美咲の友人、橘 里香の言動に一喜一憂する元木。そんな彼を見るのは、いつもの事。 「でも、野球部の事を格好いいって言ってたのは本当。」 良かったね、といってニヤニヤと笑って見せた。 「…菊原さん、面白がってるでしょ。」 床に座り込み、頭を抱えてこちらを見る元木も、いつもの事。 「そんな事ないって。二人が上手くいけば良いなって思ってさ。」 相変わらずニヤニヤする美咲に、 「…それは、まぁ、ありがとう。」 と元木は返す。人の良い彼らしい返答だと、美咲は思った。 だから、聞いてしまった。答えは何となく、わかっていたのに。 「クリスマスはどうするの?」 「え?!クリスマス?ま、まぁ普通に…?」 美咲の質問に、わかりやすく狼狽する元木。 「里香、今のところ予定無いって。」 と、ニヤニヤする美咲に、元木は赤くなりながらも、真面目な顔で答える。 「…うん、本当はクリスマスに会えないか、誘おうと思ってる。」 人の良い元木らしく、誤魔化しや嘘のない言葉。美咲はそっか、とだけ言った。 「クリスマスに会って貰えたら、告白しようと思って。」 頭を掻きながら照れ笑いする元木に、きっと上手くいくよ!頑張って!と美咲は明るく答えた。どちらの言葉も、自分の気持ちにピタリとは来なかったが、勝手に唇が動いた。遂に、この言葉を言う日が来た、とでもいうように。 「ありがとう。」 『好きな人の友人』から貰った前向きな言葉に、元木は胸を撫でおろした。 その顔に、美咲の胸はチクリと痛む。 そんな美咲に気づきもせず、元木はドライヤーのプラグを、下駄箱脇のコンセントに挿した。そして、楽しげにキャッチャーミットにドライヤーの冷風をあてる。 そんな元木を、美咲はただ眺めていた。
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