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アネモネ
冷たい風が吹きつける暗闇にぼんやりと灯るオレンジ色の街灯。
バイト終わりに通り抜けるいつもの公園に大学の“友人”の姿を見つけ、思わず息を飲んだ。
家が近いということは知っていたけど、どうしてこんな時間に?どうして、今日。
ひんやりとした汗が背中を伝う。どく、どく、と鳴る胸を抑えてひとつ深呼吸をした。
「なにしてるの?…こんな時間に、危ないよ?」
びくっと体を揺らしてこちらを振り向いた彼は、大きな目をさらに大きく見開いて「え、なんで?」と呟いた。
「俺はバイト帰り」
「あ、そうなんだ…。おつかれ」
本当は大丈夫?寒いでしょ?何かあったの?って、今すぐ抱きしめてしまいたいけど、彼の恋人でもない自分がそんなことをできるわけもなくて、ただ彼の座るベンチに同じように腰を下ろした。
ほんの少しだけ触れた肩がじくじくと熱く疼く。それと同時に気付いてしまった。彼の華奢な肩が小さく震えていることに。その理由が寒さのせいだけではないことくらい、ずっとずっと彼を見つめてきた俺にはすぐに分かってしまうんだ。
「…風邪引くから。行こう」
どこに?と聞かれる前に彼の手首を掴む。ベンチから立ち上がった俺を見上げて、彼は「…うん」と曖昧に頷いた。柔らかく細められた目元がキラキラと濡れている。
泣かないで。傷付かないで。俺ならそんな悲しい顔させないのに…なんて。そんなことを思ったところで、彼を傷付けるのも、彼を泣かせるのも、そして彼を心から笑顔にするのも、全部全部彼の恋人だけなんだってこと、俺は嫌と言うほどに知っている。
「どこ行くの?」
「俺んちでいい?近いから」
「うん」
彼が立ち上がると、身に纏っていたチェック柄のロングコートがひらりと揺れた。足が長くてスタイルの良い彼にとても良く似合っている。
そのコートを彼は昨年の冬も毎日のように着ていて、「それ可愛いね。似合ってる」と言えば、彼はとても嬉しそうに「ありがとう。誕生日プレゼントでもらったんだ」と答えたんだ。
「今日、誕生日でしょ?」
「…え…?」
知ってるよ。大学の入学式で一目惚れをして、同じ学部だと知って舞い上がって、同じゼミに入ってこれは運命だと勘違いをして、そして彼に年上の恋人がいることを知って絶望して。
それでもこの恋心を捨てられずに仲の良い友達のフリをして、彼のそばに居続けた。
ふたりの足がぴたりと止まる。
もう少しで家に着くのに。家に着いたらすぐに部屋を暖めて、温かいココアを入れてあげようと思っていたのに。
だけどベンチに座る彼に声をかけたとき、振り向いた彼の瞳がほんの一瞬だけ期待に揺れたことには気が付いていたし、その瞳に誰を映したかったのかも分かっていた。
「誕生日に、なんでひとりで、あんなところにいたの?」
彼の長いまつ毛がぱさりと揺れる。
伏せた瞳からぽたりと涙がこぼれ落ちたような気がして咄嗟に手を伸ばしたけど、彼に触れることはできなかった。手を伸ばせば届く距離にいるのに、彼の心には決して触れることはできない。
「誕生日に、ひとりで家にいるのもなんかさ…。だからちょっと外散歩しようかなって」
「恋人は?一緒に過ごさないの?」
こちらを見つめる彼の目は、どうしてそんなことを聞くんだと言っているようだ。お前には関係ないだろうと。
関係ないよ。だけど知りたいんだ、心配なんだ。だって、俺は、
「心配なんだよ。…友達だから」
こんなふうに嘘をつくしかできない俺に、彼は観念したようにゆっくりと口を開いた。
「…仕事。出張で、大阪行ってる。…新幹線間に合えば帰って来るって言ってたけど、帰って来ないと思う」
「何で?分かんないじゃん。まだ最終あるだろ?」
「分かるよ。今日だけじゃないもん…。最近ずっと、仕事ばっかりで、そっけない」
「…もう、飽きたのかも…」
そう言って酷く傷付いた表情を浮かべるから。気付けば彼の体をぐっと抱き寄せていた。
「な、なに…っ」
上擦った声を上げ、腕の中で彼が身動ぐ。
一度だけぎゅっと体を抱きしめて、こぼれそうになった「好きだよ」という言葉をごくっと飲み込んだ。
ゆっくりと体を離して、左手で彼の右手を握って。そしてもう片方の手で彼の頬を柔らかく撫でる。
困ったように眉を下げる彼が愛しい。こんな顔、初めて見た。
俺の知らない顔。彼の恋人しか知らない顔。
その顔をもっともっと見せてほしい。
ふたりの距離が、近づく。
キスをされると分かったのか、近付いてくる唇に彼は慌てて両目を閉じて、きつくきつく唇を噛み締めた。
閉じた目蓋の裏には一体誰の顔が浮かんでいるんだろう。
それはきっと、今目の前にいる俺じゃない。
そこにいるのは、誕生日なのにそばにいてくれない、たったひとりの恋人だ。
そのたったひとり、になりたかった。
「…帰ろう」
「…え…?」
ゆっくりと目を開けた彼の手首を掴み来た道を戻る。
囚われたお姫様を救いだす王子様にでもなった気になっていた。俺が彼の王子様になれるわけがないのに。
「帰るって、どこに…?」
「お前んち。送るから、どこ?」
本当はこの手を離したくないけど、彼には帰るべき場所がある。彼の帰るべき場所へ、俺が連れて行ってあげたい。
だって彼は、俺の大切な人だから。
人気のない住宅街を進むと、あるアパートの前で彼がぴたりと足を止めた。ここ?と聞いた俺の声は、アパートの一室を見つめる彼には届いていないようだ。
「…電気、ついてる…」
「え?」
彼が見上げた2階の部屋。わずかなカーテンの隙間から優しく光が漏れている。
「…一緒に住んでんの?」
「…住んでない」
「合鍵とか、渡してる?」
「…えっと…、渡してる…」
「…なんだ、帰ってきてんじゃん」
とん、と彼の背中を押す。
一歩、また一歩。彼は吸い込まれるように恋人が待つ部屋へ向かった。
がちゃりと玄関のドアが開いて、部屋から漏れる明るい光に彼の顔が照らされる。
その瞬間、不安げに強張っていた彼の顔がふわりと和らいだ。
目尻が下がって口角が上がる。
これもまた、恋人しか知らない顔だろう。
「…きれいだな…」
ドアが閉まって、辺りが再び暗闇に包まれた。
彼が見つめていた部屋を、同じように見つめてみる。
見つめる、と言うよりは睨みつける、のほうが正しいかもしれない。
そこにいるであろう彼の恋人へ、
その人は俺の大切な人だから。
その人を傷付けたら俺が許さないから。
また彼が泣いていたら、今度こそ彼を奪い去って、俺が彼の王子様になってやるから。
だから絶対、大切にして。
冷たい涙が頬を伝う。
泣くのは今日だけ。明日になったらまた笑える。
朝が来ればいつも通り学校へ行って、いつも通り彼に「おはよう」と言って、そして今日言えなかった「誕生日おめでとう」を伝えるんだ。
だから今日だけ。
泣くのは今日だけ。
実らない恋をしている男の子の話
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