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ウエディングソング
「起きて。…ねぇ、早くしないと遅刻するって」
聞き慣れた柔らかい声が耳に響く。
ぽんぽんと2回体を叩かれて、ようやく重いまぶたを開けると、視界に映るのは20年以上隣に居続けた彼の顔。
子どもの頃からずっと一緒にいて、気付けば同じ屋根の下、ふたりで暮らすようになっていた。
毎朝毎朝、目が覚めて最初に見るのは彼の顔で、最初に聞くのは彼の声で、あぁ今日も君のいる朝がやってきたと思う。
…なんて言うと、まるで恋人同士の甘い同棲生活のようだけど、俺と彼は決して“恋人”ではない。
幼なじみ、同級生、ライバル、親友。そのどれもが当てはまって、そのどれもがしっくりこないような。俺たちの関係を言葉にするのは、それはとても難しい。
ただ隣にいただけ。
それだけと言えばそれだけなのだけど。
「んぅ〜………、おはよ…」
目をゴシゴシと擦りながら答えれば、彼は呆れたように、だけどどこか嬉しそうに「早く起きてよ」と言い残して寝室を出ていく。
大きな窓から差し込む朝日に照らされた背中は、まるで女性のように華奢で小さくて。身長は俺とさほど変わらないのに…綺麗だなぁ…と思わないこともない。
「おいしそう」
顔を洗ってリビングに向かうと、ダイニングテーブルにはとてもおいしそうな朝ごはんが並んでいる。つやつやの白ごはんに味噌汁、焼き鮭、にんじんと大葉の和え物。
料理、洗濯、掃除。どちらが何をやるとか役割を決めたわけじゃないけど、いつの間にか彼がご飯を作るのが当たり前になっていた。
子どもの頃から不器用で、中学の調理実習では同じ班の女の子たちに「危ないからお皿洗いだけやって!」と言われていたくらいなのに。そんな彼が10数年後にはこうして和食の朝ごはんを作るようになるなんて。あの頃の俺たちに言っても絶対に信じないだろう。
「「いただきます」」
ふたり向き合って手を合わせ、彼の作ってくれた朝ごはんを食べ始める。
ときには焼き魚が焦げていたり、小鉢に盛られた煮物がしょっぱすぎたり、逆に薄味すぎたりすることもあるけど、彼の料理は世界一だと思う。
そう言えば、前に付き合っていた彼女の家で彼女の手作り料理を食べていたとき、ついぽろっと「彼の料理は世界で一番おいしんだよね」と言ってしまったことがある。
そのとき彼女は「じゃあその人と付き合えば?」と、はぁ…とわざとらしく大きなため息をついた。
『付き合うって…。男だよ?』
『だからなに?』
怒っているような、呆れているような。
だけどその翌日に別れを告げられたから、やっぱり怒っていたんだろう。
「結婚式、もう次の日曜か」
「そうだね」
壁にかかったカレンダーを見ると、彼が赤いマジックで書いた大きなハートが目に飛び込んできた。
次の日曜日は俺たちの高校の同級生の結婚式だ。好きと嫌い、くっついては別れてを繰り返しながら、10年の交際期間を経ての結婚だった。
「楽しみだね」
「うん。楽しみ」
ほとんど同じスピードでご飯を食べ終え、忙しなく出かける準備をする。
幼稚園から小学校、中学校、高校、大学と同じ道を歩んできた俺たちだけど、仕事は別々になった。
そして彼よりも少し早く家を出る俺は、「行ってらっしゃい」と優しい笑顔に見送られ、可愛らしいお弁当袋を受け取って、仕事に向かう。
これが俺たちにとって普通の、当たり前の日常だった。
「おはようございます」
家を出るとすぐに、近所に住んでいるおばあちゃんとすれ違う。健康維持のために毎朝の散歩を日課にしているそうだ。
「おはようございます。今日も愛妻弁当?いいわねぇ」
「いえ、愛妻弁当じゃありませんよ」
おばあちゃんは毎朝毎朝、俺が手に持つお弁当袋を見て「愛妻弁当?」と嬉しそうに笑う。
「彼は奥さんじゃないし、男だし」
「あら、男の人でも奥さんになっていいのよ?若いのに考えが古いのねぇ」
そしてこう言われるのも毎朝のことだった。
前の彼女にしろ、このおばあちゃんにしろ、「付き合えば?」とか、「愛妻弁当」だとか。
「…彼も俺も男なのに」
そう口から出た声は自分のものとは思えないほどに弱々しくて。
心の奥の、誰にも触れさせたことのない柔らかい場所が、ぼんやりとした靄のようなもので覆われていく気がした。
そしてふと、頭に浮かぶのは数か月前の彼の顔。
間もなく結婚式を迎える同級生のふたりが我が家にやってきて、朝から彼がはりきって作ったおもてなし料理を「おいしいおいしい」と食べているときだった。
「あれどこだっけ?」と聞く彼に、「そのさ、2段目」と俺が答えた。
彼はパスタにかけるための粉チーズを探していて、俺はそれが手に取るように分かった。
そんな俺たちを見て、同級生のふたりは「熟年夫婦かよ」と声を揃えた。
『夫婦ってなんだよ。一緒に住んでるだけで、男同士なんだから』
何を言ってるんだかと当たり前のようにそう答えると、彼はなぜか酷く傷ついたような、まるで失恋をした女の子のような、そんな表情を浮かべた。
そう言えば、彼がお弁当を作ってくれるようになったのはいつ頃からだったか。
一緒に暮らし始めてすぐのような気もするし、1か月ほどが経ってからのような気もする。
ただ、ある日突然「はい」と渡されたお弁当を、俺はどうして?とも、なんで?とも思わずに「ありがとう」と受け取り、会社のデスクで米粒ひとつ残さずに食べ、まるでずっと前からそうだったかのように、家に帰って「今日もおいしかった」と彼に伝えたんだっけ。
「着いたよ」
「ありがとう」
そしてあっという間にやってきた日曜日。
俺たちふたりは俺の運転する車で結婚式場にやってきた。
チャペルに足を踏み入れれば、ふわりと優しいお花の匂いが香る。厳かな雰囲気。アーチ型の高い天井。まっすぐに伸びた大理石のバージンロードには、温かいオレンジ色のキャンドルの光が美しく映し出されていた。
一番後ろの席に並んで座り、ただ静かにその時を待った。
重厚な扉がぎぃ…と開く。列席者たちの感嘆の声が、その場の空気を揺らした。
真っ白なウエディングドレスと真っ白なタキシードに身を包んだふたりが、ゆっくりとバージンロードを歩いて行く。
「きれい…」
「ふたりとも、幸せそうだね」
「うん…」
長い長いバージンロードの先には厳かな空気に満ちた祭壇があって、その真ん中には白く輝く大きな十字架がそびえていた。
「きれい…」
十字架を見上げて、彼がもう一度つぶやいた。
そんな彼の横顔を見つめる。もう何年も、ずっと隣で見てきたのに。彼のあまりの美しさに、俺はハッと息を飲んだ。
「………ねぇ、」
「ん?」
祭壇の前にたどり着いたふたりは、慈愛に満ちた眼差しで、互いの顔を見つめている。
花婿が花嫁の顔を隠したベールを上げると、ゆっくりと顔が近づいて、そして、ふたりの唇が重なった。
「結婚しよう」
パシャパシャと鳴るシャッターの音にかき消されないように、俺は彼の耳元に唇を寄せた。
「………は?」
「俺たちも、結婚しよう」
「………はぁ?」
明らかに困惑している彼の手をぎゅっと握り締める。絶対に離してはいけないと思った。
「俺と結婚してほしい」
手を握りしめたまま、彼の顔を見つめる。
驚きながらも、優しく、美しく、愛情がこぼれ落ちた瞳。彼はいつも、こんなにまっすぐに俺を見つめてくれていたのだろうか。
涙があふれそうになって慌ててぎゅっと目を閉じると、まぶたの裏に懐かしい両親の姿が浮かんだ。
見てるこっちが恥ずかしくなるくらい、仲の良い、両親だった。
両親は2年前の冬に死んだ。
交通事故で、あっけなく死んだ。
両親が死んでしばらく経った頃、俺は会社の近くに借りていたマンションを引き払い、両親が残したあの家に戻った。
当時付き合っていた彼女も、友達も、同僚も、俺は全てを拒んだ。
仕事にも行かなくなり、ろくにご飯も食べず、ただ1日が終わるのをじっと待つだけの日々。
そんな日々が続いたある日、彼が突然家にやってきた。
ずかずかと部屋の中に入り込み、「ひとりで暮らすには広すぎるんじゃない?」なんて言いながらソファーにどさっと座った。
出て行けと言えばよかったのに、俺はそれが言えなかった。
全てを拒み続けていた俺は、俺の心は、彼のことだけは必要としていたんだ。
「俺と結婚してください」
「…まだ、付き合ってもないじゃん」
「そうだけど…、でも、もう付き合ってるようなもんだったじゃん」
「なにそれ…」
ムッと唇を尖らせ、それでも彼はきゅっと手を握り返してくる。
彼が家に入り浸るようになって少し経つと、俺はまた仕事に行けるようになった。
彼は「はい、ワイシャツ」と、スーツで出勤する俺のためにアイロンをかけて、クリーニングまで出してくれて。そして終業の時間が近付けば「今日の夕飯は何が食べたい?」とメッセージを送ってくれる。
休みの日にはふとんを干して、あれが足りないとメモを見ながら近所の薬局へ日用品を買いに行く。
とても自然に、彼の日常が俺の日常になった。
いつの間にかあのおばあちゃんとも仲良くなって、ちょくちょく家に遊びに行っては料理を教えてもらうまでの仲になっていたときは、さすがに驚いたけど。
ある日彼が言ったんだ。
『おばあちゃんにいつ結婚するの?なんて言われちゃった』って。
なんでもないを装いながら、ほんのり耳をピンクに染めて、だけどどこか不安げに、こちらの様子を伺うように瞳を揺らす彼を見て、俺は確かに、彼のことを愛おしいと思った。
心を覆っていた靄が晴れていく。
これが“恋”じゃないなら、一体何だって言うのか。
「結婚しよう」
「……」
「俺と、付き合ってほしい」
「……」
「気付くのが、遅くなってごめん。本当は、ずっと前から。そして、これからもずっと。俺は、お前と一緒に生きていきたい」
「………別にいいけど」
「え…?」
「しょうがないから、結婚してあげる」
ゆっくりと、ゆっくりと、彼は両目を細めた。
そして彼の長いまつげがばさりと揺れて、つー…っと一筋の涙が頬を伝う。
「…なんで、泣いてるの?」
「…俺、泣いてる?」
「泣いてる」
「それは、お前が泣くからだよ」
自分も泣いていることに、彼に言われるまで気付かなかった。泣くのはずいぶんと久しぶりだったから。
両親が死んだときも、死んだあとも、俺は泣かなかった。
本当は、ずっとずっと、こうして好きな人の前で泣きたかったのかもしれない。
両親が亡くなる直前、久しぶりに実家に帰った俺に母親が言った。
『仕事ばっかりしてないで、たまにはデートでもしたらどう?』
『…残念だけど、相手がいないんだよ』
『そんなこと言って。…人はいつ死ぬか、いつ目の前からいなくなるか分からないのよ?』
『…なに?急に大袈裟な』
『大袈裟じゃない。あなたに後悔してほしくないの。見失ってほしくないの。…あなたの好きな人を、あなたの大切な人を』
母さんはきっと分かっていたんだろう。
幼なじみだった彼が、ずっと俺のそばにいてくれたこと。
心の奥の奥の方に、俺が恋心をしまいこんでいること。
ごめんね、母さん。
母さんが生きているうちに、俺はこの気持ちに気付きたかった。
「もう…、いつまで泣いてんの?」
笑いながら、彼の細い指が涙を拭う。
彼の笑顔は、ほんの一瞬で俺を悲しみの世界から救ってくれる。
優しくて、柔らかくて、暖かい陽だまりに包まれたような、そんな世界に連れて行ってくれるんだ。
明日も、明後日も、ずっと、ずっと。
「…病める時も、健やかなる時も。俺は、お前と一緒に生きていきたい」
繋いだ彼の指先が微かに震えている。
きっと今、同じ事を思い、同じ未来を描いているんだろう。彼のことは、俺は手に取るように分かるんだ。
ごめんね、そしてありがとう。
彼の料理が世界で一番おいしい。
彼の瞳が世界で一番美しい。
彼の隣が世界で一番心地良い。
ずいぶんと遠回りをしてしまったけれど、やっと辿り着いた、自分のいるべき場所に。
ウエディングソング
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