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作られた自分
朱里が案内された部屋に足を踏み入れると、椅子に座っていた恰幅のいい男が立ち上がった。薄くなった頭髪をかき集め、常にハンカチで額の汗を拭い、着ているシャツが気の毒になるほど身体がはちきれている、そんな類の男だった。夏場の満員電車ではお近づきになりたくないタイプ。
だが、朱里はそんな見苦しい容姿を前にしても笑みを絶やさなかった。相手の外見は商談には何の影響もないという事実を示すために。
「あぁ、どうも。私は総務課長の松田と申します。今日はわざわざ出向いてもらってすみませんね」
松田がのしのしと朱里に近づきながら言った。形だけ謝罪しているが、そこに感情は伴っていない。本当はわざわざ時間を割きたくないのだろう。だが、朱里はそんな応対には慣れっこだった。むしろ会ってもらえただけ好意的とも言える。
「いいえ、こちらこそお時間を頂戴しましてありがとうございます。私、TN生命営業課の落合でございます。本日はどうぞよろしくお願い致します」
朱里が挨拶を繰り返した。意識しなくても言葉が独りでにすらすらと出てくる。
「えーと……今日は保険の話でしたな。ただ事前にお話しましたように、弊社では今まで法人向けの保険を扱った例がないんですよ」
松田が機先を制するように言った。話を聞くだけ聞くが、契約をする気は端からない。そんな思惑が透けて見える。
「ええ、説明を聞いて頂くだけで結構です。まずはお客様に、広く弊社の商品を知って頂くことが必要と考えておりますので」
「あぁそう。保険の営業ってのも大変だね。いろんな会社何軒も回るんでしょ?」
「ええ。どちらに弊社の商品を必要とされる企業様がいらっしゃるかわかりませんから、御要望があればどこへでも、何度でもお伺い致します」
「ふうん……そう。若いのに大変だね」
松田が弛んだ顎に手をやると、しげしげと朱里を見つめてきた。相手が中年の男である場合、若い女というだけで舐めてかかられることも少なくはない。だがそこで逆上するのは禁物だ。やはり女は感情的な生き物だと冷笑を浮かべられるだけ。相手の懐に飛び込むためには、あくまでクールに、実利的に物事を進めなければ。
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