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そうしているうちに再びチーンという音がして、エレベーターの扉が開いた。朱里は慌てて追憶を意識から引き剥がすと、隙のない顔を作ってエレベーターを降りた。正面の壁にあるフロアマップを確認し、きびきびとした足取りで先方のオフィスへと向かう。思い出に浸っている場合じゃない。今は目の前の仕事に集中しないと。朱里はそう自分に言い聞かせ、なおも意識の底にこびりついている幼少期の記憶を追い払おうとした。
目的地であるオフィスに辿り着いた頃には、朱里の頭は再び商談のことでいっぱいになっていた。入口を潜ると受付嬢がいたので、愛想のいい微笑みを浮かべて声をかける。
「すみません、私、TN生命の落合と申します。本日16時より、総務課の田上様とお約束をさせて頂いておりまして」
「田上ですね。今お呼び致しますので、少々お待ちくださいませ」
受付嬢は朱里に負けじ劣らず感じのいい笑みを浮かべると、傍らの受話器を上げ、歯切れよい口調で相手を呼び出した。二言三言話した後、音を立てずに受話器を置く。
「田上はすぐに参ります。ソファーにお掛けなってお待ち頂けますか?」
受付嬢は小鳥のような声で言った。よく訓練された声。彼女もさぞかし有能な受付嬢なのだろう。朱里は同士に対する親しみのようなものを覚えながら、礼を言って頷いた。そのまま案内されたソファーの方へ行き、腰を下ろす。鞄を膝の上に置き、いつでも立ち上がれる体勢を整えながら。
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