3.だから

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3.だから

「え、ごめん。あの」 「謝らなくてもいいよ。私にとっては大切なことでも川奈さんにとっては忘れちゃうようなことってだけだから」  言葉に込められた棘がちくりと心に刺さる。ごめん、と身を縮めた胡桃をしらじらとした目で眺めてから、蓮子ははああっとため息をついた。 「去年も私たち、同じクラスだったじゃん。で、川奈さんはそのころから曽根さんたちと仲良くて」 「あ、うん」  曖昧に相槌を打つ。蓮子はちらっと横目で胡桃を眺めてから視線を膝に戻して続けた。 「けど私はさ、もともと人付き合いとか苦手だから、周りと適当に付き合ってたの。教室移動とかも一人でも困らないしと思って。そしたら、曽根さんがさ、私らのグループ入らないかって言ってきて。けどさ、正直、女子のそういうノリ、苦手だから断ったの。困らないからって。そしたら、クラス中からいっせいに無視されるようになって」 「え、え? そんなこと、あった……?」  確かに去年も蓮子ともアンリとも同じクラスだったが、そんなことになっているなんてまったく気づかなかった。 「川奈さんはさ、無視始まる少し前にインフルエンザで休んでたからそのへんの経緯、知らなかったんだと思う。伝達ミス? みたいなものだったのかも。まあ、そのせいだったってだけなのかもしれないけど、川奈さん、そのとき隣の席だった私にさ、辞書、貸してくれたんだよ」  そこまで言って蓮子は再び足をぶらぶらさせ始めた。普段の彼女が出さないような朗らかな声で彼女は言った。 「嬉しかったんだよね。急に周りから見えないふりされるようになって、弾かれて。心臓砲丸でできてるって自分のこと思ってた私もさすがに参ってたときにさ、辞書忘れたの? 貸してあげる、って笑ってくれてさ。めっちゃくちゃ嬉しくて。ずっと忘れられなかった」  言われてみれば辞書を貸した記憶はある。あるがその胡桃にとっては些細な一コマが蓮子にとってそれほどに大きな感情を伴うものだとは思いもよらなかった。  返す言葉を失っている胡桃の前で、ふいっと蓮子が顔を上げたのはそのときだった。 「だからね、許せないんだよ。私に元気くれた川奈さんの笑顔がさ、こんな形で消費されてるのが」 「消費って……だって、でも」 「川奈さんさ、怒っていいんだよ」  まっすぐに胡桃の顔を覗き込み、蓮子は言った。 「怒っていい。傷ついたなら怒っていいの。笑顔でいつも通りの自分を演じなくてもいいし、傷つけてくる人に頭を下げなくてもいい。あなたは悪くない。傷つけられたあなたは、悪くない」  あなたは、悪くない。  その言葉に今度はがつん、と心臓を殴られた気がした。  ずっと思っていたから。自分なんかが選ばれたことが間違いだった、と。  自分が選ばれたことで頑張ってきたアンリを傷つけてしまった、と。  だからこれは、当然の報いなんだ、と。  でも、やっぱり思うのだ。  仲良く笑っていた、その過去を思い返すたび、胸が疼くのだ。  あんなにそばにいたのに、それを全部消してしまえるくらい、彼女の中で胡桃の存在は許せないものになってしまったのか、と。  それほどに自分は悪いことをしたのか、と。  ただ、頑張っただけなのに、と。  その思いのはざまでずっと苦しかった。  けれど目の前の彼女は言ってくれた。  あなたは悪くない、と。  もう無理に笑わなくていい、と。 「わら、わなくてもいいのか」  そう呟いた声が揺れた。決して目を逸らすまいとするようにこちらを見つける彼女の顔の輪郭がゆらゆらと歪む。あれ、と思った瞬間、ぽろり、と目の中から雫が落ちた。  彼女は無言で胡桃の頬に落ちた雫を指で掬うと、うん、と大きく一度頷いてから囁いた。 「笑うなら、私に笑ってくれたみたいな、ああいうときに笑ってよ」  笑って言った彼女に向かい、ゆるゆると胡桃は笑顔を作ろうとする。けれどうまくできない。うう、と呻いたとき、頭上で間延びした音でチャイムが鳴った。 「授業、始まっちゃったよぅ」 「ああ、そうだね。で?」  で?  それがなにか? とでも言いたげに返されて、なんだか笑えてしまった。  思わず吹き出すと、蓮子も、ふふ、と笑う。  いつも教室では絶対に見せない蓮子の柔らかい表情に、胡桃はここのところずっと胸に刺さり続けていた棘たちが抜けていくのを感じていた。  教室が、怖かった。  笑っても笑い返されない、あの空気が怖くて。その空気が生み出す小さな小さな棘がどんどんどんどん心臓に突き立てられていって。しまいには待ち針がこれでもかと刺さった針山みたいになっていく。そんなイメージが頭の中にどんどんどんどん膨らんで。  それでも、許してもらいたくて。  けれど、もういい。そう思えた。  傷ついた気持ちを押し込めて、みんなが知っているいつもの自分を演じなくても良い。そう、感じられた。  少なくとも今、自分の目から落ちた涙を、厭わずに拭ってくれた彼女の前ではもう、無理して笑わなくてもいいのかもしれない。  ぐすぐすと鼻をすする胡桃にふいに蓮子が言った。   「そういえばさあ、もう間に合わないけど、英語の小酒井先生の口癖、あれなんなんだろうね」 「口癖?」 「ほら、よく言うじゃん。授業中指されてさあ、答えられないと、じゃあ次の授業で」 「あー!」 「「ちくっとさしますよ〜!!」」  声を合わせて言い、蓮子と胡桃は笑いだす。 「あれ、なに? 方言?」 「いや、小酒井語だと思う。次も指名しますよ、的な」 「怖すぎでしょ。見た目、マッドドクターだから余計に笑える」 「確かに確かに」  すでに授業の始まった中庭で笑い転げながら胡桃は思う。  作り物じゃない笑顔って最高だな、と。
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