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クズ
いつから使われなくなったのかも分からない、体育館裏にある旧部室棟。その外階段が私の憩いの場だった。雑草の手入れも滅多にされないために誰も足を踏み入れないこの場所は、存在すら知らない生徒も大勢いるのではないかと思う。カップルが逢い引きするには劣悪過ぎるし、大小様々な虫が往来する中で昼食をとろうとする猛者もいない。入学して1年半が経つけれど、実際誰もやって来なかった。あの日、までは。
「秋吉、何か食べる物持ってない?」
私の憩いの場に、こいつはズカズカと遠慮なく入って来る。
「持ってない。」
目も合わさずに答えても、怯むことなく隣に座って来た。
「昼飯、もう食ったの?」
「昼はいつも食べない。」
「何、ダイエット?それともめっちゃ貧乏なの?」
馬鹿にするように笑う。耳障りなことこの上ない。相手にするのをやめて、目の前のゲームに集中する。
「無視すんなよ。」
右肩を叩かれた拍子に、敵からの攻撃をくらった。もう少しで勝ったのに。倒すどころかゲームオーバーだ。
「···ウザい。」
聞こえるかどうか分からないくらいの声で言ったけれど、葛屋の耳にはちゃんと届いたようだ。ニヤニヤと嫌味な顔を向けてくる。ここから消えて欲しい。私は、1人になりたい。
葛屋は同じクラスだ。無駄に高い背。派手な顔つき。一応この辺りではトップクラスの進学校だから、髪はちゃんと黒いし制服もわりときちんと着ている。でもその纏う空気感が、よく言えば明るく華やか。悪意を込めて言うならば、派手でうるさい。似たような奴らが群がる中で葛屋はずば抜けて空気感が違い、その集団の中心にいる。
私はたぶん、最初から葛屋に嫌悪感を抱いていた。葛屋はよく、明らかにヒエラルキーの低いクラスメイトにも話し掛ける。わざと距離のある場所から、大きな声で。でも周りが見ていない時に話し掛けることはしない。それがなんとなく、‘かわいそうな奴らにも優しくしてやってるだろ’感が滲み出ていて気持ちが悪かった。もちろん私もそういう時だけ話し掛けられる側の人間で、何度か葛屋とその取り巻きによく分からない会話をふられたことがある。気持ち悪かった。胃の底の辺りがざわざわするような、そんな感覚。
あの日も私は、昼休みに入ってすぐに旧部室棟の外階段にやって来た。誰も来ない静かな空間で、ひたすらゲームをする。そうすることでざわざわと波立つ心は落ち着きを取り戻すし、何より楽しかった。‘1人で過ごすこと=孤独’だとは思わない。そう思う人の心が弱いとも別に思っていないし、そう思わない自分を強いとも思っていない。ただ、私は1人でいたい。
普段遠く離れた所からしか人の声は聞こえない。体育館は校舎から離れているし、ましてや体育館裏だ。時々体育館の中からキュッキュッと床が鳴る音と話し声が聞こえる日もあるけれど、扉はしっかりと閉まっていて聞こえる音は遠い。でもあの日は、とても近くで声がした。聞き覚えのある、2つの声が。視界に入って来たのは葛屋と、英語の椎名先生だった。何を話しているのかまでは分からない。ただなんとなく2人の雰囲気が教室で見る時と違う気がして、階段の支柱に隠れるように身を寄せた。こちらとしても、スマホではなくゲーム機を持ち込んで楽しんでいるこの状況を先生には見つかりたくない。伸び切った雑草と階段の支柱が隠してくれている私の存在に、2人は気付いていないはずだった。
覗き見がしたかったわけではないけれどこちらに気付かれても困る。2人の動向を少し離れたこの場所からしばらく眺めているしかなかった。
椎名先生が、何かを葛屋に差し出した。弁当のようにも見える。それを見下ろすようにしている葛屋の雰囲気は、普段教室で騒いでいる時のものとは違って見えた。先生が差し出している物に手を伸ばした葛屋。それを手に取った瞬間、俯いていた先生が顔を上げた。そして葛屋が笑った。
ガチャンッ
それ程大きくない音。でもその光景は、何の関係もない私でも息を飲むものだった。
地面に落とされた弁当箱。落としてしまったんじゃない。叩きつけるように、落とした。葛屋が。蓋が開いて中身が出ている。
一瞬呆然としていた先生が、ゆっくりと地面に跪きぐちゃぐちゃになった弁当を片付け始めた。その姿を見下ろす葛屋が笑う。この状況で、何を考えて笑っているのか私には理解出来なかった。片付けを終えた先生が怯えた様子で葛屋を見上げる。葛屋が口を開いたのが分かった。何を言っているのかまでは分からない。でもたぶん、先生は泣いていた。
2人がそれぞれいなくなったのを確認してゲーム画面に目を落とす。2人の関係をなんとなく想像しながら、ここで今後も密会が行われたら困るなと思った。あと、食べ物を粗末にしてはいけない。どんな事情があるにせよ、葛屋の行動はあり得ない。
「···クズだな。」
ポツリと、口からこぼれていた。
「俺のこと?」
突然近距離で聞こえた声に、心臓が跳ねた。顔を上げると、階段の横に葛屋が立っていた。
「もしかして、今の見てた?」
普段にも増して嘘臭い笑顔で、葛屋は言う。
「···見たけど。別に誰にも言わない。」
葛屋の顔は、まるで私を信用していない。
「本当に?」
「本当に。私、貴方に興味ないから。」
そうはっきりと言うと、嘘臭い笑顔を引つらせた。
「···まぁ、大丈夫か。秋吉さんが言いふらした所で誰も信じないだろうし。」
「·····」
「それに、言いふらす相手もいないよね。」
語気に悪意がこもる。
「ね、‘ぼっち’の秋吉さん。」
葛屋は笑う。その笑顔は、過去最大に私の胃の底をざわつかせた。
下から3段目に座る私の横をすり抜けて、葛屋は5段目に座った。睨むようにその動向を目で追っていると、教室で見せるような愛想の良い笑顔を見せた。
「教室にいないことは知っていたけど、こんな所にいたんだね。人も来ないし、1人ぼっちでゲームするには最適な所だな。安心して。椎名はもうここには来ない。」
何も言わずにいると、葛屋は目にかかりそうな前髪を右手で軽くかき上げた。
「別に付き合ってるとかじゃないから。いつでも泊まらせてくれるし、すぐヤラせてくれるし。まぁ便利屋みたいな感じ。」
こっちの興味の有無も確認せずに、ベラベラと喋る。しかもその内容は最低だ。
「胸デカいし、そこそこ美人だろ。でもあの見た目で処女だったんだぜ。」
教室ではこういうキャラではない。むしろ下ネタを大声で話している他の男子を窘める側だった。
「人選ミスだったな。軽い関係のつもりだったのに、弁当とか作ってくるようになってマジでウザい。」
ベラベラと、本当にベラベラと喋り続ける。なんなんだ、こいつは。
「大人しく便利屋のままでいてくれたら良かったのに。」
…クズだ。
「…椎名先生に刺されてしまえ。」
小声で言って、視線をゲーム画面に戻した。元々関わりたくなかったけれど、ますます関わりたくなくなった。
「あははは。秋吉さん、おもしろいね。」
背後から大きな笑い声。
「ねぇ、秋吉さん。」
もう振り向くのも面倒で無視することにした。
「秋吉さんってば、」
葛屋が立ち上がる気配がした。
「秋吉さん、」
階段を1段下りる音。
「おい、調子乗るなよブス。」
その低い声と同時に、背後から髪を思い切り引っ張られた。視界からゲーム画面が消える。伸びきった雑草と階段の踊り場の裏側が一瞬視界の中を通り過ぎ、首に痛みが走る。1段上から私の髪を掴んだまま、逆さまの葛屋が笑っていた。
「調子乗ってるのはどっちよ。触らないで、クズ。」
私の言葉に一瞬目を丸くした葛屋は、髪を掴んだまま再び声を出して笑った。
「俺、秋吉のこと誤解してたわ。」
ようやく髪から手が離れる。ゆっくり離れていく手を、私は思い切り払いのけた。
「また来るから。」
そう言って葛屋は立ち上がる。カンカンっと音を立てて階段を下りて行く。姿が見えなくなるまで、葛屋はもう振り向かなかった。
そして、今日に至る。この前のことは何もなかったかのように葛屋は私の隣に座っている。距離が近い。どうして親しくもないこんな奴と、狭い階段に並んで座っているのか分からない。
「それ何のゲーム?」
ウザいと言われても葛屋は全く怯まない。
「オタクなの?学校では友達いなさそうだけど、オンラインゲームの中に友達いっぱいとか、そういう感じ?」
馬鹿にするように言う。教室にいる時とキャラが違う。なんというか、今の葛屋の方が頭が悪そうだ。普段はもっと大人びた感じなのに。今の葛屋に違和感はあるけれど、恐らくこっちが素なのだろうな、と思う。そう、こいつの素はクズだ。
「無視は良くないよ、秋吉。」
再び右肩を叩かれる。
「痛い。あと、触らないで。」
その手を払いのけると葛屋は笑う。
「めっちゃ塩対応。」
不快な声でゲームに集中出来ない。
「話し掛けられるのも触られるのも迷惑。ちやほやされたいならオトモダチの所に戻って。」
座ったまま階段を1段下りた。これなら視界の端に葛屋が入り込むこともない。ゲームオーバーになってしまった画面から、リプレイを選択する。斜め後ろにいる葛屋に動きはないし、何も言わない。背後は多少気になるけれど、もう気にしない。普段通りゲームをするんだ。
葛屋に動きはない。画面に集中していると、徐々にその存在が薄れていく。さっきは葛屋に邪魔をされて即ゲームオーバーだった。次は決める。
スコアを見ると、あと少しでハイスコアを越えそうだった。ここ2ヶ月程更新出来ていなかったスコアだ。手がほんのり汗ばむ。ゲーム機を握る手に力が入った。
「はい、おしまーい。」
突然視界が真っ暗になった。柔らかい物で顔の上半分を覆われて何も見えない。
「ちょっと、なに」
顔を左右に振って逃れようとすると、笑い声と共に視界が明るくなった。真っ先に確認したゲーム画面はまたもやゲームオーバー。いよいよ殺意が湧いてきた。
「無視は良くないよ。」
にっこりと笑う。
「···ほんっとに消えて。」
ゲーム機を空っぽの弁当袋に閉まって、私は外階段をあとにした。‘消えて’と言っておきながら自分が立ち去るというかっこ悪さに気付いたのは教室に戻ってからだった。
授業が始まるギリギリに教室に戻って来た葛屋は、こちらを見ることなく私の席の横を通り過ぎて自分の席に戻って行く。廊下側の列の前から2番目が私の席。葛屋は隣の列の1番後ろ。振り返らなければ、私の視界に葛屋はいない。いくらか落ち着いた苛立ちをぎゅっと押し込むようにして、英語の教科書を机に出した。チャイムが鳴る。教室に入って来た椎名先生の視線が、教室の後ろの方を彷徨うように揺れた気がした。
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